静まり返った夜、佐藤は一人暮らしのアパートの室にいた。
部屋の中は薄暗く、ただかすかな月明かりが窓から漏れ込んでいた。
彼は疲れた身体をソファに沈め、コンビニで買った惣菜を食べながら、テレビの音に耳を傾けていた。
しかし、何かが気になり、ふと視線を向けた先に、黒猫がいることに気づいた。
猫は座って、何かをじっと見つめていた。
佐藤は心の中で「またあの猫か」と呟いた。
この猫は、近所の人が飼っていたが、時折一人で部屋に入り込んできては、じっと彼を見つめたり、心地よさそうにするのが習慣になっていた。
今日はちょっと様子が違う気がした。
月明かりに照らされた猫の目は、いつもよりも冷たく、どこか異様に感じた。
佐藤はその視線に耐えきれず、視線を逸らした。
そして、何気なく猫の横を通り過ぎようとした時だった。
猫が突然、彼の足元に擦り寄り、そのまま背後に回り込んだ。
次の瞬間、佐藤は背中に何か冷たいものを感じた。
まるで誰かがそっと布に触れたような感覚だった。
振り返ると、猫はもうそこにはいなかった。
代わりに、部屋の隅に真っ赤な血のようなものが広がっていた。
佐藤は驚き、思わずその場から後ずさりした。
しかし、彼の心には恐怖が広がるのではなく、なぜか興味が芽生えた。
何が起きているのか、理由が知りたかったのだ。
血のようなものが床を這う様子を見ながら、何故かそれが形を持ち、まるで何かを描こうとしているように思えた。
文字なのか、模様なのか、佐藤にはわからなかったが、次第にそれが彼の目の前に浮かび上がってきた。
まるで誰かが助けを求めているかのように見えた。
その瞬間、耳元で猫の鳴き声が聞こえた。
「帰って、帰るの」と。
しかし、猫の声はどこから聞こえてくるのか定かではなかった。
佐藤は混乱し、その場に立ちすくんでいた。
視線を床に戻すと、血はさらに形を変え、今度は一人の女性の顔が浮かび上がった。
彼女は一体誰なのか、彼を見つめているその目は、何かを訴えているようだった。
再び猫の声が響く。
「怨念がいる。彼女を助けて。あなたの手を貸して」。
佐藤は動揺した。
彼には何もできない、ただの一介のサラリーマン。
自分には何の力もないと思った。
しかし、その瞬間、なぜか彼の心に決意が生まれた。
彼女が誰なのか、何が起きたのか知りたい、その一心で彼は部屋を飛び出した。
近くの公園に行くと、そこには真っ黒な猫が待っていた。
「向こうだ」と、猫が指し示す方向には古い廃屋があった。
恐怖に駆られながらも、佐藤はその廃屋の中に足を踏み入れた。
薄暗い室の中、かすかな血の匂いが漂い、何かが彼を呼んでいるような気がした。
彼が進んでいくと、部屋の隅に、かつて住んでいたと思われる女性の姿が見えた。
彼女は薄闇の中で静かに座り込んでいた。
佐藤は声をかける。
「何があったのですか?」彼女の目は悲しそうに光った。
「助けて…私の名前を呼んで…」その瞬間、彼女の目から涙が流れ出た。
佐藤は恐る恐る声を発し、彼女の名前を呼んだ。
すると、彼女は微笑んで消えていった。
すると、周囲の空気が急に和らぎ、不気味な雰囲気が消え去った。
戻ると、猫は彼を待っていた。
「彼女は帰れた、だからあなたも帰りなさい」と告げる。
その言葉が彼の心に響いた。
彼はそっと部屋へ戻ることにした。
改めて見回すと、部屋の床には、あの血の跡も消えていた。
静かな晩、猫は静かに彼の足元に座っている。
猫の目がそのまま暗闇に消えていくのを見て、佐藤は安堵と共に心を落ち着けた。
彼はもう一度、普通の日常に戻る準備をしていた。
恐れを捨て、彼女の怨念が確かにどこかに消えたことを信じて。