商業ビルが立ち並ぶ街の中心に、ひときわ古い喫茶店があった。
その名は「月の影」。
周囲のビルとは対照的に、どことなく漂う不気味な雰囲気が訪れる者を引き寄せていた。
この喫茶店には、常連の客が訪れる理由があった。
それは、特別なコーヒーが提供されるからだった。
どんな悩み事も少しは軽くなると評判のそのコーヒーは、いわく「時を思い出させる味」だと言われていた。
主人の田中浩一は、地元で評判のバリスタであり、彼の淹れるコーヒーは多くの人々に愛されていた。
しかし、浩一には秘密があった。
彼はこの店の地下に、禁じられた儀式によって手にした力を宿す古い豆を保管していた。
その豆を使って入れたコーヒーには、過去の出来事を鮮明に思い出させる効能があったのだ。
ある春の日、若い女性、佐藤美咲が「月の影」の扉を開けた。
彼女は、故郷を離れて働くために上京してきたばかりで、孤独感に苛まれていた。
美咲は浩一に勧められるままに、その特別なコーヒーを注文した。
彼女の瞳の奥には、忘れられない過去の記憶が隠されていた。
夜、本を片手に喫茶店で過ごす中で、美咲は一杯のコーヒーを飲み干した。
その瞬間、周囲の音が消え、視界がぼやけ始めた。
まるで過去の扉が開かれ、彼女を引き込んでいくかのように。
次の瞬間、彼女は自身が幼少期に過ごした街の風景の中に立っていた。
懐かしい友達の姿や、どこか切ない思い出が溢れ出てくる。
しかし、訪れた過去には変わった影が漂っていた。
それは、美咲の見覚えがある少年、健太の姿だった。
彼は過去のままの姿で、無邪気に遊んでいたが、どこか異様な空気を纏っている。
美咲は、彼に近づきたかったが、その一歩が踏み出せなかった。
彼女がしっかりした足取りで近づくと、健太の顔が急に曇り出し、彼女を見つめ返した。
目の中には、不安と恐れが浮かんでいた。
「なんでここにいるの?」健太が問いかけてきた。
美咲は胸がせり上がるのを感じながらも応えた。
「私、忘れたいと思ってた。でも、あなたに会いたい。」
その一言で、世界は崩れた。
健太の周りにぼやけた霧が立ち込め始め、彼の姿が次第に薄れていく。
「ここは、もう私のいる場所じゃない。美咲、お前もここにいると、永遠に動けなくなる。」
美咲の心は恐怖に包まれた。
彼女は手を伸ばそうとしたが、その霧に飲み込まれそうになり、思わず後ずさった。
健太は何も言えず、彼女をじっと見つめていた。
目が覚めた時、喫茶店のカウンターに座っている自分を認識した。
浩一は佇んでおり、彼女が過去に戻っていたことを察するように静かに見守っていた。
「どうだった?」
「過去を思い出した。でも、健太が…」美咲は言葉を失った。
浩一は静かに頷き、彼女の背中を支えた。
「そのコーヒーは、時の影を呼び寄せる。過去と現実の狭間で、何を選ぶかはお前自身だ。だが、気をつけろ。その選択は、不幸の代償を伴うこともある。」
美咲は思いを巡らせ、涙を流した。
その夜、彼女は自分の心に向き合い、過去に縛られない生き方を選び始めた。
そして、喫茶店「月の影」は、彼女の心の一部として息づくことになった。
だが、時折、彼女は思い浮かべる。
あの少年の姿を。
あの霧の中に隠された真実を。
商業ビルの中にひっそりと佇む「月の影」。
その店で過去を思い出し、未来を選ぶ者たちの姿は、今もそこにあるのだ。
美咲は、時の狭間に取り残された者たちと同じように、影に見守られながら生きている。