「最後の夜勤」

深夜の病院は、静寂に包まれていた。
外からの騒音も消え、廊下に響くのは時折聞こえる看護師の足音や、遠くで患者の呻き声のみ。
そんな場面に似つかわしくない異様な気配を感じていたのは、今日は夜勤を任された若い医師、佐藤健太だった。

健太は院内の点検を終え、頭を冷やそうと自動販売機でコーヒーを買って廊下を歩いていた。
何かが気になる、しかし具体的にはわからない。
ただ、彼の心の中には不安が渦巻いていた。
それに気づいていたのは、静かに廊下の隅に立っていた一人の看護師、鈴木美咲だった。
美咲は、先日亡くなった患者の担当をしていた看護師だった。
彼女のことが、心の片隅にいつも残っていた。

美咲は、一人で心の中に抱えていた悔いを持っていた。
それは、彼女が無力だった事実、そして助けられなかった患者への想いだった。
彼女はその時の心の痛みを断ち切れず、夜になると独りでいることが耐えられなくなった。
それから、彼女の姿を見かける者は誰もいなくなった。

健太がその日、廊下を歩いていると、ふと視線を感じた。
振り向くと、何かがちらりと見えた。
白い影のようなものだった。
しかし、そこには誰もいない。
気のせいかと思い直し、もう一度コーヒーを飲もうと自動販売機に目を向ける。

その時、背後でかすかな「え…」という声が聞こえた。
振り向くと、誰もいない。
その声が美咲のものであると感じた瞬間、脳裏に彼女の姿が浮かぶ。
彼女の目に浮かんでいた不安と絶望、それを忘れられないでいた。
そんなことを考えながら、健太はもう一度歩き出した。

廊下を進んでいくと、少し薄暗い院内の一角に差し掛かった。
そこで健太は、手がかりを探しに行くことになった。
ドアを開けると、中には一人の患者が静かに寝ていた。
だが、彼の身体は冷たく、心臓音が聞こえなかった。
無呼吸に陥っていた。
しかし、彼は真っ直ぐに見つめるように目を開けていて、その瞳の中には悲しみが宿っているようだった。

「助けて…」と彼の口が動いた瞬間、健太の心臓は跳ねた。
それは、彼自身や過去に彼がかかわった数々の患者の声が重なり合ったものに感じた。
その瞬間、彼の中に美咲の存在を再確認するような感覚がよぎった。
彼女は、すべての患者を支えられなかったことに対して、悔いを持ち続けているのだ。

彼は看護室に急ぎ、急いで別のスタッフを呼んだ。
何とか患者を助けようとするも、その場には「彼はもう戻れない」という冷たい言葉が響く。
健太は焦り、涙が出そうになった。
彼は不安な気持ちを振り払うため、美咲の名を口にした。
「美咲、助けてくれ」と呟くと、彼女の顔が浮かんできた。

その瞬間、室内の空気が変わり、静寂が助けを求める声に変わった。
看護師たちが駆けつけ、数名が協力して心肺蘇生を行う。
美咲の思いが健太に伝わったのだろうか。
その力強さに、健太は秘められた力を感じた。
「彼を助けましょう!無理ではない」と自分に言い聞かせた。

その場にいる全員が、真剣な眼差しで患者を見つめていた。
時が過ぎれば過ぎるほど、美咲の影がその場にとどまることを感じ、祈りのように彼に勇気を与えていた。
やがて、患者の心拍が戻り、彼は再び息を吹き返した。

その日以来、健太は院内で美咲に出会うことはなかった。
だが、彼女の思いを胸に、どんな患者にも全力を尽くす決意を固めた。
人は一人では生きられない、たとえ目の前に見えないであっても、誰かのために心を寄せることはできるのだと。

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