深い山の奥へと足を踏み入れたのは、佐々木直樹だった。
彼は、都会の喧騒から逃れ、心の静けさを求めてこの場所を選んだ。
相模川のほとりに広がる山々は、彼にとってまるでサンクチュアリのような存在だった。
しかし、近くの村では言い伝えられている奇妙な現象を直樹は知らなかった。
ある日のこと、直樹は山を登り、ふと見つけた小道を歩くことにした。
その先に広がる景色に心を奪われ、山道をどんどん進んでいく。
すると、ふと目の前に開けた場所が現れた。
そこには、不気味なほど静まり返った湖があった。
湖の水面は鏡のように滑らかで、周囲の木々や空が映り込んでいる。
しかし、直樹は何か奇妙な違和感を覚えた。
彼は水面に近づき、自分の姿を確認しようとした。
すると、一瞬、直樹の映った姿が歪み、異形の存在が水面に映り込んだ。
刹那、直樹の心に恐怖が走った。
映った影は、彼自身の姿をしているはずなのに、何かが違った。
目が異様に輝き、口元には歪んだ笑みが浮かんでいる。
直樹は思わず後退り、その場から逃げ出した。
だが、彼が一歩踏み出したとき、足元からも映像が流れ出すように広がった。
まるで、彼の『堕』落を待ち構えていたかのようだ。
驚くべきことに、その影は直樹に向かって手を伸ばしているように見えた。
“来い”と言わんばかりに。
直樹は反響する思考の中で、自分が何を見たのか、何故心を掴まれたのかを理解しようとした。
その時、直樹は気がついた。
この山の伝説が、まさに彼に迫っているのだ。
「湖に映るものは、心の闇を映し出す」と村の人々に語られていた言葉を思い出す。
彼の中に抱えていた不安や孤独、友情への嫉妬、それらが全てこの影の中に凝縮されていたのだ。
直樹は自分自身を鏡で見つめ直さなければならなかった。
「だめだ」と呟き、彼は必死にその場から逃げ出す。
しかし、どうにもならない。
湖は引き寄せる力を持っていた。
振り返ると、影は水面から這い上がり、彼に迫ってくる。
映る影は次第に実体化し、満面の笑みを浮かべながら「お前を飲み込んでやる」と囁く。
直樹は全身に恐怖を感じ、もう逃げられないのではないかという絶望が心を覆った。
その瞬間、直樹はふと立ち止まった。
影に向かって強く叫び声を上げた。
「お前は俺ではない! 俺は俺だ! お前が持っているものを受け入れることはできない!」その言葉が、何かを変えた。
影の動きが一瞬止まり、湖の水面が波立ち始めた。
直樹は恐る恐るその様子を見守る。
影は崩れ、泡となって消え去っていった。
直樹は胸を撫で下ろし、一度深呼吸をした。
しかし、安堵の瞬間の後、急に背後から冷たい風が吹き抜け、全身に鳥肌が立った。
そして、その風の中に、どこからともなく耳に突き刺さるような囁きが聞こえた。
「お前は逃げられない。私がいつでも待っている。」
その言葉は彼の心に深く刻み込まれた。
直樹は再び心の闇と向き合わなければならないことを感じ、山を後にすることにした。
だが、彼はしばらくの間、あの湖のことを忘れることはできなかった。
その映像がいつまでも彼の心に残り、影は彼の内面に潜んでいた。
そして、彼は心のどこかで理解していた。
あの影との戦いは、これからも続くのだと。