「振り向いてはいけない夜」

寒い冬の夜、北の村には言い伝えがあった。
月明かりに照らされた道を歩く者は、決して振り向いてはいけないという禁忌。
この村では、夜に現れる「び」という存在が恐れられていた。
人々は暗い夜道を急ぎ、なるべく家の中に閉じこもり、無用な噂には触れないようにしていた。

ある晩、村の青年、和也は友人たちに誘われ、少し遠くの山を登ることにした。
彼は好奇心に満ちた性格で、こうした噂こそ面白いと感じていた。
友人たちが懸念する声を無視して、彼はもっと高い山の頂上を目指した。

時刻は深夜。
山を一歩一歩進むうちに、視界は次第に暗くなり、月の光が薄れてきた。
友人たちは後方で足を止めたが、和也は独りで先へ進むことに決めた。
「怖がるな、ちょっと見てくるだけだ」と言って。
誰もが彼の背中を見送りつつ、暗闇に消えていく彼に不安を感じていた。

頂上に着いた和也は、冷たい風に吹かれながら、村を見下ろした。
不気味な静寂の中、彼はふと何かに気づいた。
月の光に照らされた森の奥、そこに立つ一人の女性がいた。
彼女は白い着物を纏い、長い黒髪を風になびかせていた。
彼女の顔は月明かりに浮かんでいたが、和也にはその表情がはっきりとは見えなかった。

不思議な魅力に引き寄せられ、和也は魅入られたように彼女の方へ近づいていった。
そうするうちに、友人たちの声が耳に入り始める。
「和也、早く戻ってこい!」その瞬間、女性が振り返った。
「び」の声が彼に届く。
「来てはならない・・・」彼女の言葉は風に乗って消えてしまった。

和也は驚き、急に後悔した。
しかし、彼の好奇心が勝り、彼女の姿を追いかけた。
彼女は山の奥へ消えていく。
「お願い、どこに行くの?」たどり着くと、その女性は月の光の中で、もう一度振り返った。
目が合った瞬間、彼女の顔が次第に変わり始めた。
穏やかだった表情は、恐ろしいものへと変わった。

「私の願いを聞いてくれ…」その声は低く、艶があった。
和也は後ずさりしながらも、じっと彼女の目を見つめた。
次の瞬間、彼女の姿が急にぼやけ、無数の影が彼の周りを囲むように現れた。
「び」が迫ってきた。
和也は恐怖に駆られ、忘れかけていた振り返るなという教訓が頭をよぎった。

彼は慌てて山を下りようとしたが、全身が重く感じた。
影たちが彼を引き止めるように絡みつき、彼の動きを封じた。
「見てはいけないものを見てしまった」と悲しみと後悔が襲った。
月明かりは遠く彼を照らし、和也はその光を求めてもがくが、影たちは彼に笑いかけながら近づいてくる。

ついに、和也は力を振り絞って強く反転し、山を駆け下り始めた。
背後からは彼を呼ぶ友人たちの声が聞こえる。
「和也!振り向くな!」しかし、彼の心には恐れが渦巻いていた。
それに抗うことができず、ふと後ろを見てしまった。

その瞬間、彼の目に飛び込んできたのは、山の頂上に立つあの女性の姿であった。
長い髪が風に舞い、彼女は無表情で彼を見つめ返していた。
和也はなんの思考もないまま、全力で逃げ続けた。

村に戻ると、友人たちはほっと安堵した表情を浮かべていた。
しかし、彼を捕えた「び」は、村のどこかに潜んでいる。
村にはその夜、また一人、姿を消す者が現れるのではないか。
そして、和也の心には、その恐怖が薄暗い影を落としていた。
彼の瞳には、月明かりが映し出す影だけが残り、夜ごと彼を苛み続けるのだった。

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