「抱かれた記憶」

東京の片隅にある、古びたアパートには、静かに暮らしている女性、由紀がいた。
彼女は三十代前半で、仕事に追われる日々を過ごしていたが、何よりも自分の心の安らぎを求めていた。
そんな由紀には一つの特別な趣味があった。
それは、廃墟探訪だ。
彼女は社交的ではなく、孤独を愛した。
放置された場所に自らを投影し、無言の風景に心を開くことに喜びを感じていた。

ある日、由紀はインターネットで見つけた古い精神病院の情報に引かれ、訪れることにした。
廃墟としての魅力には抗えなかったが、その病院には「然」という不気味な噂があった。
死者の霊と、生者の思いが交ざり合う場所だという。
「ら」とは、住んでいた人々の思いが具現化したものであり、あらゆるものを吸い込むという。
由紀は、それに惹かれていた。

精神病院の扉を開けた瞬間、薄暗い廊下から異様な気配が漂うのを感じた。
空気が重く、何かが彼女を牽引しているようだった。
壁には剥がれかけたペンキと、汚れた絵画が飾られていた。
それはかつての患者たちの肖像であり、彼らの叫びが潜んでいるように思えた。

一歩一歩、奥へ進むと、突然耳元で「由紀…」という低い声が響いた。
彼女は思わず振り返ったが、誰もいなかった。
心臓が鼓動を速める。
しかし、由紀は勇気を奮い起こし、さらに奥へと進んだ。
廃墟の中には、彼女を待ち受けている何かがいると信じていた。

進むにつれて、異様な現象が増え始めた。
廊下の天井からは水滴のようなものが降ってきては、無数の目が彼女を見つめているように感じた。
足元では、かつての患者たちの影がうごめいているようだった。
何かが彼女の心に響き、過去の記憶が呼び起こされる。
「す」で始まる言葉、「寂しさ」、「痛み」、それはまるで彼女自身の過去を映し出しているかのようだった。

由紀は探索を続けたが、次第に彼女の心はその場所に吸い込まれていくように感じた。
結局、たどり着いたのは、大きな病室だった。
その部屋の中央には、古い病院のベッドが置かれている。
そして、その上には薄い布がかけられていた。
由紀は無意識に近づいて布をめくる。
中にあったのは、人形のような形をしたもの。
顔は無表情で、聴覚を遮断されたように口が開いていた。

その瞬間、激しい痛みが込み上げ、由紀の心に「放」という言葉が響いた。
放っておけない思い、放たれた気持ちが交錯し、まるで彼女を束縛するかのようだった。
彼女は過去のトラウマに向き合う覚悟ができていなかった。

由紀は目の前の人形に手を伸ばした。
その瞬間、彼女の心に無数の思い出が押し寄せ、彼女を包み込むような感覚が広がった。
「あの時、私はもっと自分を大切にすればよかった…」と過去の自分を責める声が聞こえる。
彼女はその場で膝をつき、叫び声を上げた。
「ごめんね、私を放っておいて!もう一人で生きられない!」

その声が虚空に響き渡り、今度は彼女の静かな心が支配を取り戻し始めた。
周りの異様な気配は和らぎ、徐々に部屋が明るくなっていく。
由紀は動揺しながらも、立ち上がり、暗闇に背を向けることに決めた。
もう探す必要はない。
自分の心に寄り添い、過去を受け入れることが、彼女自身を自由にする方法だった。

精神病院を後にする頃、空は青く晴れ渡り、目の前には新しい出発が待っているように感じた。
心の奥に残る「然」とは、過去の思いと、未来の希望が交差する場所だった。
由紀はそこからの一歩を踏み出すことを決意したのだった。

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