静かな田舎の集落、そこには古くから伝わる言い伝えがあった。
この村では毎年、秋の訪れとともに一つの儀式が行われていた。
それは「抱(いだく)」と呼ばれる風習で、人々は期限が過ぎた「抱き手」(昔の村人が作り上げた人形)を持って、夜の神社にお参りすることになっている。
抱き手は、失った者への想いを象徴するもので、村人たちはそれに自分の思いを込め、無事を祈るのだった。
ある秋の日、村に住む青年、健太は抱き手を持つことになった。
彼の心には、最近亡くなった祖母の記憶が深く刻まれていた。
祖母はいつも彼に優しく寄り添い、温かな言葉をかけてくれた。
しかし、彼が幼い頃から病を抱えており、亡くなるまで孤独を抱えていた。
健太は祖母の想いを受け止め、抱き手に彼女の姿を重ね合わせることにした。
彼はそのために、村の神社に向かうことを決意した。
その晩、健太は地元の集まりに参加していたが、周囲の人々は抱を行うことへの恐れから、まるで避けているかのようだった。
村人たちの中には、「抱をしてはいけない」と昔から言われている伝説を信じる者が多くいた。
伝説によると、抱いた相手が深い思いを持つあまり、彼方の世界との間で取り扱いを間違えると、あの世の者を呼び寄せてしまうという。
しかし、健太はそれに耳を傾けず、祖母に手を合わせたい一心でその夜、神社へと向かった。
神社に着くと、彼は静まり返った暗い境内に森閑とした空気を感じた。
見上げれば、月が雲に隠れ、薄暗い木々の間には不気味な影が揺らいでいる。
彼は抱き手を手に、神社の祠の前に立ち、そっとそれを差し出した。
「祖母、どうか見守っていてください」と、その言葉を心の内で繰り返し、精一杯の思いを込めた。
ところが、そんな彼の心とは裏腹に、暗闇の中からゆっくりと異様な声が聞こえてきた。
「抱いて……私を抱いて……」その声は、かすかな子供のようなもので、どこか懐かしい、しかし不気味な響きがした。
彼の心臓が早鐘を打つ。
その瞬間、抱き手が何かの力を受けて動き始めた。
彼は驚き、思わず後退った。
周囲の空気が重く感じる中、月明かりに照らされた抱き手は、まるで生きているかのように微かに揺れている。
健太は目を背けずにはいられず、その背中を見つめ続けた。
「抱いてほしい……」声が、今度は耳元で囁くように聞こえた。
怯えながらも、その声音に呼び寄せられるように一歩踏み出すと、抱き手が彼の腕にすがりつくように抱き着いてきた。
そこには祖母の温もりはなく、冷たい感触が彼の肌を包んだ。
健太はそれが何か違うものであることを理解した。
その瞬間、彼は逃げ出したい衝動に駆られるが、足が重くて動けなかった。
彼は幻想なのか、実体なのか、もはや分からない恐怖に包まれながら、目の前の暗闇から逃れられずにいた。
誰かが彼の名を呼んだ。
振り返ると、幼い友人がいた。
友人は彼を助けようと近づいてくるが、健太は示し合わせたように、「離れて!」と叫んだ。
しかし、もう手遅れだった。
抱き手は彼を引き寄せ、友人をも巻き込むようにして暗闇に引き込んでしまった。
月明かりが再び差し込んできた時、健太は気付いた。
彼が拾ったはずの祖母の想いが、今度は彼自身の抱えた過去や恐れに変わってしまっていた。
友人を救えなかった自分の無力さを呪うように、彼はその場に立ち尽くした。
村では後日、健太と友人が消えたことが噂され、彼らの行方を探す者が増えたが、誰も見つけることはできなかった。
抱の儀式は、もう誰も行うことはなくなり、村は静けさを取り戻した。
しかし、神社の前では今でも、周囲の者に「抱いてほしい」という翳りを残し続けているという。