「折れた枝の囁き」

深い秋のある日、田中健太は友人たちと共に近くの山へハイキングに出かけた。
穏やかな日差しの中、イチョウの葉が黄金色に染まり、小道を進む彼らの声が静かな山間に響く。
楽しげな笑い声が山の静寂を破り、彼らは心躍らせていた。

しかし、山の奥へ進むにつれて、空気が次第に冷たくなり、周囲の雰囲気は一変した。
健太は、不安を感じながらも「寒いね」と言って笑い飛ばし、友人たちも笑顔を浮かべる。
しかし、次第に不気味さが彼らの心に忍び寄る。
時折、風がざわめき、葉が擦れ合い、「誰かがいるのかもしれない」と錯覚させるほどだった。

「休もうよ」と友人の佐藤が言った。
彼らは近くの空き地に腰を下ろし、軽食を取ることにした。
食べ物を広げ、談笑の時間を楽しんでいたが、突然、健太は周囲の寒気がさらに強まるのを感じた。
身体が震え、言葉が出ない。

「どうしたの、健太?」と友人の山田が彼を心配そうに見つめた。
健太は何も言えず、ただ黙ってうなずく。
そして、視線の先に異様なものを見つけた。
その瞬間、彼の目に映ったのは、かすかに見える人影だった。
人間のような形をしているが、色は真っ黒で、その姿は霧のように揺らいで見えた。

「見た?あれ…」健太は震える声で告げると、友人たちも不安を募らせた。
しかし、それはただの錯覚なのか、彼の脳が作り出した幻影なのか、誰もその正体を掴むことができなかった。

時が経つにつれ、周囲は日没を迎え、さらに寒さが増してきた。
友人たちは恐怖から逃げ出そうと、急いで片付けを始めた。
しかし、健太はその黒い影が気になり、目が離せなかった。

「健太、早くしよう!」佐藤の声に引き戻されると、彼は重い身体を引きずりながら友人たちの元に戻った。
だが、心の奥には、その影が刻み込まれていた。

山を下りる道すがら、何度も振り返ったが、影はどこにも見当たらない。
ただただ、彼の胸の中に冷たさと不安が留まっていた。
無言のまま歩き続け、彼らはようやく山を下りることができたが、その後の数日、健太は妙な体調不良に悩まされることとなる。

夜寝ると、異様な寒気を感じ、かつての温もりが失われたように彼の心は萎縮していった。
夢の中にもその黒い影が現れ、彼を脅かす。
「折れた枝を見て、恐れを忘れるな」という囁きが、何度も耳元で響いた。

日が経つにつれ、健太の周囲で不思議な現象が頻発するようになった。
友人たちもやがて影の存在を感じ取るようになり、特に彼が触れた「折れた枝」は、妙に不吉な気配を放っていた。
友人たちは次第に関係がぎくしゃくし、健太自身も孤独感に苛まれるようになった。

ある晩、意を決した健太は、自らその影を深く恐れながらも、再び山を訪れることを決めた。
かつて見た影が待っているのなら、向き合うのが解決だと考えたのだ。
夜の山は恐怖に包まれ、冷え冷えとした空気が彼を迎える。
月の光の下、健太はかすかな声を耳にする。

「お前は私を見つけた…」

振り返った瞬間、あの黒い影が彼の目の前に立ち尽くしていた。
その様子は歪み、まるで吸い込まれていくように見えた。
彼は逃げようとしたが、自らの身体が動かない。
心は恐怖で満たされ、運命を感じた。

「折れた枝の思い出を解放しなさい…そうすれば、私も解放される」影が言うと、彼はその意味を理解した。
何度も思い出すことを拒否し続けた自らの過去を引きずり出されるのを感じた。

「それを忘れることはできない!」健太は叫んだが、その声は虚空に消えていく。
影が近づき、彼を包み込んだ。

その後、健太の姿は誰にも見られなくなった。
友人たちは彼を心配して山に向かったが、彼の行方は知れなかった。
ただ、山の中で冷たい夜風に吹かれ、折れた枝が揺れる音だけが響いていた。

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