「戸の向こうの未練」

竹内真理は、都心から少し離れた静かな町に住む平凡なOLだった。
彼女の日常は、仕事と家の往復で成り立ち、特別な出来事や楽しみもなく、ただ淡々と過ぎていく。
そんな彼女がある晩、帰宅すると、自宅の玄関の戸が少しだけ開いているのに気がつく。
心のどこかで薄い不安を感じながら、その戸を押し開けた。

入ってすぐ、真理はいつも通りの静かな部屋を見渡した。
家の中はいつも通りだったが、違和感も同時に抱えた。
何かが足りないような、いや、何かがいるような。
彼女は辺りを見回し、視線がふと玄関の戸に移った。
その瞬間、背筋が凍るような感覚が走った。

その戸の隙間から、何かが彼女をじっと見つめている気配を感じた。
真理は恐る恐る戸の方に近づいたが、何もいなかった。
心臓が高鳴りながらも、何もないことを確認し、安心する。
しかし、心の奥に残った不安は消えなかった。

その日の夜、真理は不安を抱えたままベッドに入った。
眠りに落ちようとした時、突然、耳元で誰かの囁き声が聞こえてきた。
「真理さん……」その声はとても近く、彼女の名前を呼んでいた。
しかし、誰もいないはずなのに。
真理は息を呑み、目を見開いた。

彼女は恐れる気持ちを抑えて、再び目を閉じようとしたが、声は続いた。
「私と一緒にいてください……」その声は急に悲しげな響きを帯びていた。
真理は身体を起こし、周りを見回したが、誰もいない。
彼女の心は助けを求める声を持つ者がいることを察知した。
だが、誰なのか想像もつかなかった。

翌日、真理は完全に眠れないまま出勤した。
昼過ぎ、ふと思い出したのは、近くの古い神社の話だった。
そこに伝わる、戸の向こうにいる者に出会った者は、往々にしてその者の思い未練を託けてくれるという話。
その戸越に隠された者の情に振り回され、彼女はその神社へ行くことに決めた。

神社に到着すると、古びた鳥居が真理を迎えた。
不気味な静けさが辺りを包んでいた。
彼女は神社の境内に入っていき、ひと際古い木の木陰でその声が聞こえた。
「真理さん、待っていました。」その声はやはりあの夜の声だった。

もう一度、耳をすませる。
「私はあなたに助けを求めています。私の思いが時を越えて、あなたのもとへ行きました。」

心の底から惹かれるものを感じながら、真理は声の主を見た。
目の前には薄い影のような存在が浮かんでいた。
自分の知らない感情が言葉を求めるように、彼女ははっきりその存在を見つめた。
「あなたは誰ですか?」

影は少しの沈黙の後、微かに姿を現した。
それは、彼女の過去の思い出が膨らんだような存在だった。
温かさと淋しさが混じり合った複雑な感情が、その影には宿っていた。
「私はあなたの心の中にある未練です。」

真理は思わず目を伏せた。
過去の悲しみや失ったもの、その記憶の数々がまるで自分の心をたどるように呼び起こされていく。
戸の向こうにいる者は、自分が関わりを持ちたくなかった過去の記録だった。
流れていく時間の中で、真理は自らの思いを否定することでしか自分を守れなかったのかもしれない。

「もしあなたを背負う覚悟があるのなら、私を受け入れてください。失ったものは決して戻らないが、それでもあなたは新たに始めることができる。」影の声は響き、記憶の重さを真理へと託ろうとした。

彼女はその時、心の中の痛みを受け入れる決意をした。
そして、影の存在を背に、新しい一歩を踏み出すことを選んだ。
涙を流しながらも、不安を抱えた戸を開けることができたのである。
それは、失ったものや過ぎ去った情を恐れるのではなく、大切なものを新たに見つけるための意味深い覚悟だった。

タイトルとURLをコピーしました