古びた館が佇むその場所は、町外れの静かな森の中にあった。
周囲の木々はまるで館を囲むように生い茂り、昼間でも薄暗い影が落ちる不気味な場所である。
かつては華やかだったであろうこの館は、今や風化し、誰も近寄らない幽霊屋敷として有名だ。
しかし、一人の男、健はその伝説に興味を惹かれ、館を訪れることを決心した。
健は幼い頃に初恋の相手、奈々を亡くしていた。
彼女との思い出は美しいが、その記憶は同時に切ないものでもあった。
彼は奈々に似た女性と出会うことができず、いつしか彼女の記憶を心に閉じ込めていた。
しかし、館に伝わる恐ろしい話を聞いたことで、彼はこの場所に何かヒントがあるかもしれないと考えた。
館に足を踏み入れると、冷たい空気が彼を包み込んだ。
家具は埃をかぶり、窓は割れ、長い間誰も訪れていないことを物語っていた。
しかし、彼の心は期待で高鳴っていた。
館の奥へ進むにつれ、何かが胸の奥で揺れ動く感覚があった。
そのとき、彼はかすかな音を耳にした。
「……健……」
その声は柔らかく、懐かしい響きを持っていた。
健の心臓はドキリと跳ねた。
奈々の声だった。
彼は一瞬、自分の耳を疑った。
亡き恋人の声が、こんな古びた館で聞けるなんて。
しかし、そんな声が聞こえたのはただの幻聴だと自分を戒める。
彼は冷静さを取り戻すため、周囲を見渡した。
不気味な静寂の中、再びその声が響いた。
「健、私に会いたいの?」彼の身をすくませるその声は、より近くから聞こえるようになった。
目を凝らすと、館の一角に薄い光が漂っていた。
その場所はかつて、奈々が好きだった場所だった。
健はその光に惹かれ、ゆっくりと歩み寄った。
彼の足音は、音を立てずに静かに館の中に広がっていく。
健の心は高鳴り、恐怖よりも愛の記憶が優先されていた。
それは勇気の音だった。
しかし、館の異様な気配が彼を包む。
光の中には、見覚えのある姿、奈々が穏やかな顔で微笑んでいた。
「やっと、会えたね」と彼女は頬を柔らかく寄せて言った。
健は心のどこかで何か違和感を覚えたが、それを無視して彼女に引き寄せられる。
奈々は優しく健に手を差し伸べた。
彼はその手を取りたくなり、恐怖に囚われずに一歩踏み出そうとした。
ところが、突然、不気味な音が館全体を震わせた。
ガシャンと何かが倒れる音、そして冷たい風が吹き抜けた。
その瞬間、奈々の顔が暗く曇り、彼女の姿がゆらりと揺れる。
健は心臓が嫌な予感で締め付けられ、後ずさりした。
「私を呼んだの?でも、私はもう帰れないの」と奈々の声音が変わり、悲しげな響きを帯びる。
「奈々、なんでこんな……」健は手を伸ばすが、彼女の手は幻のように遠く、触れられない。
声が消え、館の中は再び静寂に戻った。
健は己の無力さを呪い、館を逃げ出そうとする。
だが、出口はどこもかしこも閉ざされ、彼は奈々の声に囚われて身動きが取れなかった。
館の中に響く声は、彼に何度も問いかける。
「私を忘れないで、でも戻れないの……」
その声はだんだんと大きくなり、彼の心を締め付けていく。
愛の記憶に囚われる恐怖。
健は恐れに震え、奈々の声に引きずられそうになる自分を必死で振り程こうとしていた。
しかしその瞬間、体中に電撃が走り、健は倒れ込み、意識が遠のいていった。
目を覚ました時、彼はあの館の外にいた。
しかし、その心には深い恐怖が刻み込まれ、彼の記憶には奈々の名前がかすかに響いていた。
彼が愛を求めたその場所は、決して戻れない愛の影を宿していたのだ。