ある夏の午後、佐藤は友人に誘われてバーベキューに出かけた。
場所は、山奥の静かな林の中にある小さな池のほとり。
そこで友人たちと楽しい時間を過ごしていたが、佐藤は一つのことが気になっていた。
池の水面が時折、音もなく波立つことだった。
「おい、佐藤、その池、ちょっと変だぞ。見てみろ、なんか波が立ってる。」と友人の中村が指摘した。
みんなで池の方を向くと、水面は静かに揺れ、周囲の風景をゆがめて映している。
その様子に、不気味さを感じつつも、好奇心が勝つ佐藤は、池の近くに行ってみることにした。
水際に立つと、不意に涼しい風が吹き抜け、彼は思わず身震いした。
その瞬間、池の水面が再び波立ち、何かが浮かび上がってきた。
それは、着物を着た女性の姿だった。
彼女の顔はぼやけていてよく見えなかったが、その長い黒髪が水面に漂う様子は、まるで絵画のようだった。
佐藤は、ただの幻影だと思って目をこすった。
「見ろ、佐藤、あれ、女の人じゃないか?」中村が声を上げた。
友人たちも興味を持って池の方に寄り集まる。
浮かび上がる女性は、ゆっくりと邂逅するかのように近づいてきた。
彼女の着物は黒と紫の美しい模様が施されていたが、どこか古臭く、まるで遥か昔のもののように思えた。
友人たちは興奮し、スマートフォンを取り出して写真を撮り始めた。
「おい、やめとけ、なんか怖いぞ!」佐藤は思わず声を上げたが、周りはその言葉に耳を貸さなかった。
すると、女性は不意に微笑んで見せた。
その瞬間、池の水は一気に激しく波立ち、まるで何かに引き寄せられるように、全員がその方向へ引かれていく。
佐藤は危険を感じ、何とかその場から離れようとしたが、体が動かない。
意識が泳ぐ水面に映った女性の目に捕われ、心はその場から離れようとしなかった。
「助けてくれ…」と微かに彼女の声が佐藤の耳に響く。
「あなたの思い出が、私を呼んでいる…。」
その瞬間、佐藤は自分の過去を思い出した。
幼い頃、祖母と一緒に池のそばで遊んだ日々、そして、儚い約束。
彼女はそのときの思い出の化身だったのかもしれない。
母親に叱られて池に近づいてはいけないと言われた記憶が、脳裏に浮かんだ。
「思い出を忘れないで…」女性の声が再び響く。
池の水は激しく揺れ、さまざまな思い出が水面に投影され始めた。
友人たちの顔も見え、その光景は徐々に変わっていった。
佐藤の心の中で何かが弾け、彼は思わず叫んだ。
「やめろ、俺は忘れない!」
その言葉が響くと、女性の姿は一瞬凍りつき、そして、池が静まり返った。
水面は再び穏やかになり、着物を着た女性も姿を消した。
友人たちも何事が起こったのか理解できず、ただ呆然と池を見つめていた。
佐藤はその場から逃げるように足早に歩き出した。
友人も追いかけてきたが、心の中に残った冷たい感覚は消えなかった。
彼は振り返らず、ただ池のことを思い出にしないように心に誓った。
帰り道、彼はふと池の存在を思い出し、息を呑んだ。
あの女性の微笑みを、もう一度見たいと思う一方で、彼女の声の奥に潜む淀んだ悲しみに心が痛んだ。
そして、彼が忘れられない思い出の中に、永遠に「怪しい存在」が宿ることを知った。