「思い出の影」

ある静かな夜、灯りの消えたアパートの一室に、70歳を超えた田中さんが一人座っていた。
彼は最近、妻を失い、独り暮らしになった。
照明も薄暗く、狭い空間には彼の心に眠る孤独が漂っていた。
狭い部屋は、彼の過去や思い出が詰まった一種の檻のようだった。

その日、田中さんはふと目に留まった古びた冊子を手に取った。
それは妻がよく読んでいた『怪談集』だった。
中でも面白いと思っていた話があった。
物語の中には、ある家に住む老婆が自分の無数の思い出と共に時折現れる幽霊の話があった。
その老婆は、死後もなお、年老いた自分を守ろうとし、彼女の生きた証を今も探し求めているという。

田中さんはその話を思い出しながら、妙な気配を感じた。
窓の外は暗く、音もなく、ただ静まり返っていた。
ふと、彼は背中を向けて座っている椅子の間に隙間を見つけた。
その瞬間、何かがその隙間からこっそりと覗いているのを感じた。
視覚的には何も見えなかったが、心の奥で何かが確かに存在しているのを感じた。

「何かいるのか?」田中さんは呟いた。
「ここには私しかいないのに…」

心臓の鼓動が速まる。
彼は再び冊子に視線を戻すが、ページがだんだんと開かれ、周りの空気が重く息苦しくなっていく。
すると、どこからともなく冷たい風が吹き抜け、それと同時に彼の耳元で誰かの声がささやいた。

「思い出を、私の思い出を取り戻して。」

田中さんはそれが夢か現実か分からなかったが、徐々にその声の正体が分かってきた。
彼の目の前に、昼間見かけたはずの妻が薄明かりの中に現れたのだ。
はっきりしない白い影になって、彼を見つめていた。

彼女の顔はどこか悲しげで、長い間離れていたからか、その存在が遠く感じられた。
彼は目をしっかりとこすり、もう一度確かめた。
彼女はまだそこに居る。
だが、何か違った。
彼女の姿は徐々に壊れていくように見えた。
もともとの彼女の明るい笑顔は消え、無表情な顔に変わりつつあった。
部屋の中の空気が一層寒くなり、田中さんは恐怖に駆られた。

「どうしてこんな姿で…なぜ私のところに?」田中さんは思わず口にしてしまった。

妻の影は答えなかったが、彼の目の前でゆっくりと消えていった。
そして、その消え際に残った空気が、彼の心に響く一つのメッセージを届けた。

「思い出を、壊さないでください。」

その言葉は田中さんの心に重く刻まれた。
彼は残された日々の中で、自らの思い出を大切にしていなかったことに気づく。
妻との美しい時間や、彼女が愛した場所、彼女が語った怪談の数々を、いつの間にか壊していたのだ。

田中さんは、古い冊子を両手で抱え込むと、自分自身に誓った。
どんなに孤独であっても、彼女の記憶を守り続けることを。
彼はその後、彼女の好きだった花を植え、アパートの狭いベランダを彩ることにした。

のちに田中さんは、生きている限り、その思い出を心に刻み、妻への愛を取り戻そうと努力することになる。
狭い空間の中でも、彼の心には妻の存在が静かに息づいていた。
彼は、思い出の中で妻と共に生きていることを感じながら、毎日を過ごしていった。

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