「忘却の館の影」

その館は、古くから伝わる不気味な言い伝えを抱えていた。
誰もが避ける場所として知られ、地元の住民たちは決して近づかないようにしていた。
その理由は、館に潜む「気」と呼ばれる存在にあった。

ある日のこと、若い女性がその館に足を踏み入れた。
彼女は心霊現象や怪談に興味を持つ自称「研究者」で、ひとまず館の調査を始めることにした。
外は雨が降りしきり、館の中は薄暗く、静けさの中に何か不穏な気配が漂っていた。

彼女は一歩ずつ、館の隅々を探索し始めた。
どこからともなく漂ってくる冷たい風が肌を撫で、彼女は思わず背筋が凍る思いをした。
しかし、興味を抑えきれず、更に奥へと進んでいく。
その時、彼女はある部屋の扉がほんの少し開いているのに気づいた。

不思議なことに、その部屋には「然」とした雰囲気が漂っていた。
まるで時間が止まったかのように、何も動かず、ただ静寂が支配していた。
彼女はその場に引き寄せられるようにして、扉を開けた。
すると、中には古い家具が並び、壁にはかつての家族の肖像画が飾られていた。
彼女は少しずつ部屋の中へと足を踏み入れる。

その瞬間、背後で扉が閉まる音が響いた。
驚き、振り向くと、なんとも言えない異様な気配が漂っていることに気が付いた。
「これが噂の気なのか…」と彼女は思った。
息を飲み、しばらくその場に留まっていると、ぼんやりとした視界の中に、かすかな影を見た。
何かが彼女を見つめている。
心臓が早鐘のように鳴り、逃げ出したい衝動に駆られたが、動けなかった。

その影は、古い家族の肖像画の中から現れたかのように感じられた。
彼女はついに気を振り絞り、「あなたは誰なの?」と声をかけた。
しかし、返事はなく、代わりに声なき何者かの意志が、彼女の心に直接響いてきた。
「私を覚えているか?」

その一言は、彼女の脳裏に別の記憶を呼び覚ました。
それは、幼い頃に聞いた、忘れかけていた物語だった。
そこには、ある家族が大切にしていた約束が描かれていた。
それは「忘れない」という約束だった。
しかし、年月が経つにつれ、彼らは忙しさの中でその約束を破り、やがて館は忘れ去られ、無視される存在になってしまったのだ。

彼女はそのことを思い出すと、急に悲しみに包まれた。
「ごめんなさい、私はあなたを忘れていたかもしれない」と心の中で呟いた。
その瞬間、気が彼女の周囲に集まり、まるで彼女を包み込むように感じられた。
だがそれはもう、優しいものではなかった。

突然、館全体が震え始めた。
壁の隅々からは、かつての家族の怨念が溢れ出しているかのように見え、彼女の目の前には、影のような姿が形成されていく。
その存在は、彼女を引き寄せようとしていた。
「私をどうか忘れないで。約束を破った者には、必ず罰が下る…」

彼女は恐怖に駆られ、思わず後退した。
しかし、逃げることができなかった。
館の中に閉じ込められた彼女は、影が近づいてくるのを感じた。
心の底から自分の無力さを痛感し、その存在との繋がりを断ち切れないまま、引き込まれていった。
彼女の意識の奥底には、彼女が決して覚えていけなかったことが、留まったままだった。

時が経つにつれ、館は再び静けさを取り戻した。
しかし、誰も訪れる者はいなかった。
館の中には、彼女の存在が消え去り、ただ「気」が漂うだけだった。
そして、その気は次の訪問者を待っているのだろうか。
忘れ去られた、無数の約束とともに。

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