陽が沈み、街に薄暗い影が広がる頃、健一は職場からの帰り道を急いでいた。
人通りの少ない住宅街を進む中、彼の目に留まったのは、ひっそりと佇む古いマンションだった。
何年も空き家状態であるその建物は、周囲の住宅とは異なり、どこか不気味な雰囲気を漂わせていた。
そのマンションには、以前住んでいた住人が次々と行方不明になったという噂があった。
特に、最近になってその話を聞いた健一は、何か気になるものを感じずにはいられなかった。
「人が行方不明になるなんて、ただの噂だろう」と自分に言い聞かせつつも、胸の内には好奇心が渦巻いていた。
その時、ふとマンションの中から微かな声が聞こえてきた。
「開けて……開けて……」。
驚いた健一は立ち止まり、身を屈めてその声の出所を探った。
声はさらに強く「開けて!開けてよ!」と続く。
すっかり恐怖に駆られた健一は、躊躇しながらも思わずマンションの入口へと近づいてしまう。
ドアは錆びていて、ほとんど使われていないかのようだったが、何の抵抗もなく開いた。
中に入ると、薄暗い廊下が長く伸びており、壁は剥がれかけていて、埃が積もっていた。
健一の心臓は容赦なく早鐘を打つ。
いったい誰の声だったのだろう。
また、どうしてこんな場所に引き寄せられたのか。
不安を抱えながら、廊下を進む健一の目に飛び込んできたのは、住居のドアがわずかに開いている光景だった。
隙間から漏れ出るわずかな光に引き寄せられるように、彼はそのドアに手をかける。
そして、意を決してドアを押し開けると、目の前には不気味な雰囲気の部屋が広がっていた。
部屋の中には、薄ぼんやりとした明かりに照らされた古びた家具が散乱していた。
しかし、最も目を引いたのは、その部屋の中央に立つ一人の少女だった。
彼女は薄い白いドレスをまとい、長い髪が地面に垂れ下がっている。
顔は青白く、無表情で、まるでその場から動くことを拒んでいるかのようだった。
「助けて……」彼女はまた、力のない声で呟いた。
健一は、彼女の言葉が真実であることを瞬時に悟った。
少女は、この閉ざされた場所に囚われているのだ。
だが、その理由はわからない。
恐怖と興味が交錯する中、健一は思わず彼女に近づく。
すると、少女の目が急に光を帯び、彼をじっと見つめ返した。
「この家には、私のことを忘れた人たちが住んでいる。彼らは私を記憶から消し去った。だから、私はここにいるの」と彼女は静かに語り始めた。
「私の名前は真央。私が最後に見た人たちは、私の存在を忘れてしまった。だから、誰も私を探しに来てくれないの。」
彼女の言葉に、健一の心が大きく揺れた。
その瞬間、彼はこの場所がただの過去の残骸ではないことを悟った。
それは、失われた記憶とともに、かつての住人の霊が彷徨う場所だった。
ハッと我に返った健一は、急に冷たくなった空気を感じ取る。
「戻らなければならない」と心に決め、後ろを振り返った瞬間、ドアが突然閉まった。
振り向くと、真央は依然としてそこに立っていたが、今度は冷たい微笑みを浮かべていた。
「あなたもここに残るの?人は自分の記憶を大切にしなければいけないのに。私のように……」
健一はその言葉に背筋が凍りついた。
まるで彼女が過去の住人たちのように、彼自身もまたこの場所に囚われてしまうのではないかという恐怖が、彼を襲った。
彼は必死にドアを叩き続けたが、まるで怨念のような力が閉じ込めていて、どうしても開かなかった。
家の中には少女のか細い声だけが響いていた。
「開けて……開けて……記憶を失わないで……」。
その声は次第に遠のき、健一は暗闇に飲み込まれていった。
彼の心の奥には、真央の存在と共に、忘れ去られた記憶が封印されていく感覚が広がっていた。
そして、彼はそのままこの街で、人々の記憶から消えていく運命を辿ることになった。