「忘却の赤壁」

ある町外れに、ひときわ古ぼけた家がひっそりと立っていた。
この家には、かつて幸せな家族が住んでいたが、ある日、その一家が姿を消して以来、誰も近づかなくなった。
周囲の人々は、そこには何か恐ろしい秘密があるのだと噂していた。
その家の名は「赤壁の家」と呼ばれ、古びた壁に赤い染みが残っていることからその名が付いた。

主人公の佐藤直樹は、都会からこの町に引っ越してきた若いデザイナーだった。
彼は新しいインスピレーションを求めており、古い家に惹かれて足を運ぶことにした。
直樹はその古い家の前に立つと、胸が高鳴るのを感じた。
誰も近づかない場所でありながら、彼にはどこか魅力的な空気が漂っていた。

家の扉を開けると、内装は崩れかけており、長い間人が住んでいなかったことがわかる。
しかし、その冷たい空気の中に、何か特別な存在を感じた。
特に、壁には目を引く何かがあった。
それは、赤く染まった部分が無数の手形のように見え、まるで誰かが助けを求めているかのように直樹には思えた。

彼はその壁に触れると、ある不思議な感覚が彼を襲った。
まるで吸い込まれてしまいそうな感覚で、意識が逃げるように身体が硬直した。
すると突然、耳の奥で「練」のような音が聞こえ始めた。
それは穏やかな波の音のように感じたり、また時には不気味な低音となって耳鳴りを引き起こしたりした。
直樹は何かに導かれるようにその音の発生源を求め、壁に耳を当てた。

その瞬間、彼の頭の中に過去の記憶が流れ込んできた。
それは、かつてこの家に住んでいた家族の日常や、楽しそうな笑い声、優しい母親の姿、そしてその後の、彼らが消えてしまうまでの恐ろしい光景だった。
直樹は、家族が何か邪悪な力にとらわれてしまったのではないかという想像を巡らせた。
もしかすると、この壁が彼らの記憶を練り合わせ、封じ込めているのではないかと考えるようになった。

その日以来、直樹は毎晩その家を訪れるようになった。
彼はその壁を通じて過去の出来事を知ることができると感じ、またその記憶が少しでも彼の創作活動に役立つのではないかと期待を抱くようになった。
しかし、彼の心の中には、徐々に恐怖が芽生えてきた。
音は次第に「助けて」とか「忘れないで」といった言葉に変わっていき、直樹は何かに呼ばれているような不気味な感覚に襲われるのだった。

ある晩、直樹はより深くその家の秘密を探ろうと決意し、壁を叩いてみることにした。
すると、突然、壁が大きく震え、激しい音が響き渡った。
直樹は驚き、身体は動かず、ただその場に立ち尽くしていた。
ふと、彼の背後に冷たい風が吹き抜け、何かの存在を感じた。
その瞬間、彼は耳元で「覚えているか」とささやかれ、思わず振り返った。

そこには、薄暗い空間から現れた家族の姿があった。
彼らはどことなく悲しそうな目をしていて、直樹を見つめていた。
しかしその瞬間、赤い手形が彼の記憶の中で甦り、彼は心の中で何かが崩れ去るのを感じた。
彼の意識は急激にそれらの顔を忘れようとした。
しかし、その声はずっと彼の中に響き続けた。

最後の記憶が薄れていく中、壁から手が伸びて直樹の腕を強く引き寄せた。
彼はとうとう力尽き、赤い壁の中へと飲み込まれていった。
次の日、誰も直樹の姿を見かけることはなかった。
人々は再び「赤壁の家」を忘れていくのだろう。
壁に新たな手形が刻まれることだけが、静かに進行していく様子があった。
彼の記憶も、また新たな練となって地の底へと消えていくのだ。

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