小さな町のはずれにある古い橋、それは地元の人々に「記憶の橋」と呼ばれていた。
この橋を渡る者は、自らの過去を振り返ることを余儀なくされると言われていた。
特に、特定の日、すなわち梅雨明けの日には、その現象が強く現れるのだ。
ある年の梅雨明けの日、大学生の田中翔太は、友人たちと共にこの橋を訪れていた。
翔太は、過去を振り返ることに興味がなかったので、友人たちが言う言葉を軽視していた。
「ただの噂だろ?」と笑いながら橋の中央に立った。
その瞬間、背後から不思議な声が聞こえた。
「忘れないで、お兄ちゃん…」
その声はかすかに耳に届くが、誰もいない。
翔太は振り返ったが、ただ風が吹き抜けるのみだった。
友人たちも気がつかない様子で、橋の端に立って話し込んでいる。
翔太は再び橋の中央に立ち、自分の過去を思い返してみようとした。
そのとき、目の前にはかつての自分が映し出された。
小さな頃、翔太は妹の美咲と一緒に遊ぶのが大好きだった。
夕暮れ時、彼女と一緒にこの橋を渡った日のことが浮かび上がる。
美咲は「お兄ちゃん、ここから何が見える?」と笑顔で尋ね、その無邪気な笑顔が今も心に引っかかっていた。
次の瞬間、翔太は橋の反対側を見た。
そこには、白いワンピースを着た幼き美咲が立っていた。
彼女の笑顔は消え、悲しげな表情へと変わっていく。
「お兄ちゃん、私のことを忘れちゃったの?」その言葉が、翔太の心に刺さる。
彼は目を見開いた。
「美咲!今もいるの?どこにいるんだ?」翔太が大声で呼ぶと、その姿は徐々に霧のように消えていく。
「忘れないで、お兄ちゃん」その声は、風に乗り翔太の耳に届いた。
翔太は混乱しながらも、過去の記憶がさらに鮮明に浮かび上がった。
事故で美咲を失ってから、自分がどれだけ彼女を思い出さずにいたか。
その痛みを和らげるために、自分自身を守るために、彼女を忘れたふりをしていた。
「ごめん、美咲…」翔太は呟いた。
「あの日のことを思い出せなくて、本当にごめん…」その瞬間、再び周囲が静寂に包まれた。
彼は橋の上に立ち、過去の記憶と向き合う決意をした。
今こそ、美咲を思い出し、彼女を忘れずに生きる時だと。
しかし、橋を渡りきると、友人たちが心配そうに目を向けてきた。
「翔太、大丈夫?」彼の表情が変わったことに気がついたのだろう。
翔太はその顔を見つめながら、思い出を心の奥に刻んだまま答えた。
「うん、大丈夫だよ。少し、考えることができただけ。」
彼らが橋を後にしたとき、翔太はふと振り返った。
美咲の姿はもうどこにもなかったが、彼の心の中に彼女の笑顔が焼き付いていた。
忘却の橋を渡り、翔太は自分自身と向き合う覚悟を持っていた。
そして、彼は今後、妹の存在を決して忘れないと心に誓ったのだった。