「忘却の影」

静かな夜、古びた町の片隅には、長い間忘れ去られた一軒の家があった。
その屋敷はかつて住人に賑わいのあった場所であったが、今では薄暗い闇に包まれ、ただの廃屋としての姿を呈していた。
時折風が吹き抜け、屋敷の屋根や壁が擦れ合い、まるで何かが話しかけてくるように感じられた。

乗(のり)は、近所に住むごく普通の青年だった。
彼は好奇心が旺盛で、ふとした興味からその古い屋敷に足を踏み入れることを決めた。
周囲は誰も近寄らない場所だが、彼にとっては未踏の地であり、心の奥に隠された恐れを解放するチャンスとも思えた。

夕暮れ時、彼は懐中電灯を手に屋敷の中へと足を踏み入れた。
木の床がぎしぎしと音を立て、彼の心臓は高鳴る。
壁には褪せた絵画が掛かり、傷だらけの家具が過去の存在を物語っていた。
中に入ると、冷たい空気が彼の身体を包み込み、不安が彼の足を鈍らせる。

屋内を歩き回るうちに、彼は一つの扉を見つけた。
それは簡素な木製の扉で、他の部屋とは明らかに違う雰囲気を放っていた。
扉を開けると、そこには暗い階段が続いていた。
薄暗い下へと続く階段を下りるにつれ、彼の心の中にある恐れと興奮が入り混じった感情が溢れてくる。

その階段の先には、外の光を遮るほどの闇が広がっていた。
乗は懐中電灯をかざし、その光が闇の中にわずかな明かりをもたらした。
その瞬間、乗は何か異様な気配を感じ取った。
視界の隅に影のようなものが動いたのだ。
恐ろしいものを感じながらも、彼はその影の正体を確かめるために一歩踏み出した。

すると、突如として彼の足元が崩れ落ちた。
衝撃とともに、彼は下へと転落していく。
暗闇の中で、彼は何かの下敷きになる感覚を覚えた。
やがて彼の周りは静寂に包まれ、意識を失いそうになりながら、彼は闇の中に落ちていった。

その時、彼の脳裏には過去の記憶が浮かび上がっていた。
幼いころ、その屋敷の話を耳にしたことを思い出す。
かつてそこに住んでいた家族が一夜にして姿を消したという。
町の人々はその家を忌み嫌い、そこを避けるようになった。
乗はその家に何があったのかを理解し始めていた。

彼はやがて意識を取り戻し、薄明かりの中で恐る恐る体を起こした。
周囲は暗く、ただ彼の懐中電灯の光だけが彼を取り囲むように照らしていた。
彼は周りを見渡し、そこには無数の人々の影が立ち尽くしていることに気づいた。
彼らの顔は悲しみに満ち、目は虚ろだった。
それはかつて屋敷で生き、今は喪失した者たちの霊であった。

「私たちは忘れ去られた者たち…」どこからともなく響く声が彼の耳に届く。
乗は恐怖に震えながらも、目の前にいる彼らを見据えた。
「何があったのですか?」

「私たちの記憶は、長い間この闇に閉じ込められている。あなたは私たちを思い出し、解放しに来たのかもしれない。」その声は重く、切実だった。

乗は彼らの顔を見つめ、その目が求めているものを読み取った。
それは忘却からの解放であり、喪失した存在の記憶を再び呼び起こしてほしいという願いだった。
彼は思わず深呼吸し、心の奥で記憶をがんばって辿った。
彼はこの場所で何が起きたのかを語り始めた。
そして、彼の言葉の一つ一つが幽霊たちの心に灯りをともしていくように感じた。

彼は声を大にして、その屋敷での悲しい出来事を語り続けた。
彼の言葉が響くたびに、闇の中で立ち尽くす影たちの表情が少しずつ和らいでいくのがわかった。
やがて、彼らの姿が霞んで消えていく。
彼はその瞬間、彼らからの重荷が彼の心から少しずつ取り除かれていくのを感じた。

そして、屋敷はしん、と静まり返った。
闇に落ちた乗が見上げると、淡い光に包まれたそよ風が吹き始め、彼を囲んでいた悲しい影たちは徐々に消えていった。
彼は今、屋敷に残されたかつての記憶とともに、闇から解放されたのだ。

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