「忘却の影」

夜が深まった頃、田中一郎は大学の図書館で、友人の佐藤健二と共に遅くまで勉強していた。
薄暗い書架の間で、彼らは静かに資料を広げ、時折互いに耳打ちを交わしていた。
だが、図書館の閉館時間が近づくにつれて、周囲の静けさが不気味に感じられ始めた。

一郎はその場にいて何かが不穏であることを感じていた。
突然、友人の健二がささやいた。
「なんか、空気が変わった気がしない?変な気配がするよ…」一郎も怪しむように周囲を見回した。
人影はなかったが、視線をそらした背後に、何かがいるような気配を感じた。

「もしかしたら、もう少しだけここにいようよ」と一郎が提案すると、健二は気味悪そうに首を振った。
「早く帰ろう、雰囲気が悪い。」

二人はいつものように明るい話題に切り替えようとしたが、その瞬間、図書館のブザーが鳴り響いた。
閉館時刻が来たのだ。
二人は急いで荷物を片付け、出口に向かう。
だが、玄関口に近づくと、ふいに背後からの声が聞こえてきた。

「待って…」その声は、どこか懐かしさを感じさせる響きを持っていた。
一郎は振り返ったが、そこには誰も居なかった。
健二もそれに気づき、身震いした。

「行こう、一郎。早く…」と健二は急かしたが、一郎は言葉にできない不安に囚われ、警戒しながらゆっくりと出口に向かった。
ドアを開けようとしたその時、再び聞こえる声が耳の奥で響いた。
「なぜ、私を忘れたのですか?」

その瞬間、一郎の脳裏に数年前の出来事が蘇った。
中学時代、彼の親友だった西村美咲。
彼女は突然の事故に遭い、命を落としたのだ。
その後、一郎は美咲のことを思い出さないように努めていた。
次第に彼女の存在は薄れていったが、今、それが目の前に現れた。

「美咲…?」一郎は心臓が高鳴るのを感じながら声を発した。
背後には語られぬ影があり、硬い空気が漂っていた。
美咲の姿が宙に浮かんでいるように見えた。
“吸”い取られるように惹かれる思いと、過去の記憶が交錯する。

「私を、どうして忘れたの?」彼女の声は、かつての彼女そのものだった。
しかし、何かが異なっていた。
彼女の顔は影に隠れ、無表情なままだった。
二人の間には、彼女が引き寄せる“な”に惹かれる何かがあった。

健二が隣で震えていた。
「一郎、それは本当に美咲なの?離れよう!」だが、一郎は動けなかった。
美咲の姿は彼を優しく包み込むように近づいてきた。
彼の心の奥深くにある罪悪感が、次第に彼を責め立てていた。
美咲を忘れたことを、彼女の喪失を償おうとしなかったことを。

「どうして…どうして私を蔽(おお)ったの?」彼女の問いかけは、まるで刃のように心を刺した。
一郎は、その責任感に押しつぶされそうになり、涙が溢れ出た。
「ごめん、美咲。何もできなかった…」

その瞬間、美咲の表情が変わった。
悲しみに満ちた顔が徐々に穏やかになり、「許してあげる」と囁いた。
しかし、一郎はその言葉を素直に受け入れられなかった。
彼女の姿は次第にぼやけ、影となって消えかけた。

「私を思い出して。忘れないで…」という言葉が耳に残りながら、彼女は消えていった。

一郎は全身が震え、ようやく動けるようになった。
視線を健二に戻すと、彼も怯えた目で一郎を見ていた。
「一郎、今の、なんだったんだ…?」

一郎は言葉を失い、ただ黙ってうなづいた。
二人は図書館を後にし、夜の街道を急ぎ足で帰る。
美咲の声が耳の奥に響き続け、自分たちの過去を否応なく思い出させる。
「私を忘れないで…」その囁きは、永遠にいなくなってしまった彼女を想う者にとって、いつまでも消えない幽霊のような存在となった。

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