「忘却の影」

学は友人たちと共に、ひと夏の夜、山奥の一軒家に泊まることになった。
鬼のような暑さから逃れるため、彼らはひと時の涼しさを求めて、その場所を選んだのだ。
周囲は静まりかえり、星が瞬く空の下、一行は小さなテントを張り、キャンプファイヤーを囲んで語り合った。

「この辺りには昔、暴れん坊の鬼がいたって話だよ。」友達の一人が言った。
そう言いながら、彼は夜風に揺れる木々を指さした。
「その鬼は村人を襲って、食べてしまったらしい。でも、ある日、村の勇士が立ち上がって、鬼を退治したんだ。」話しながら彼は笑ったが、学はその話がどうも気に入らなかった。

彼は物語に耳を傾けながら、かすかな違和感を感じていた。
周囲の静けさは不自然で、何かがあるように思えた。
しかし、友人たちは寄り添い、楽しげに笑い合っていた。
学は自分が感じている恐怖が、ただの気のせいであってほしいと思った。

暗い山の中で思い出したのは、彼の祖母から聞いた昔話だった。
彼女は言っていた。
「人々が忘れたものは、やがて消えゆくのだ。でも、忘れたつもりでも、心の奥にあるものはいつか戻ってくる。」その言葉が、学の心に引っかかっていた。

学はふとテントの外に目を向けた。
その瞬間、彼は信じられない光景を目にした。
周囲に黒い影が現れ、彼の存在を取り囲むように動いていた。
影はまるで生きているかのように、彼をじっと見つめていた。
そして、その影の中には、かつての鬼を思わせるほどの迫力があった。

「何だ、あれは?」彼はパニックになり、友達を振り向いたが、彼らは依然として楽しんでいた。
「大丈夫だよ、学。」友達の一人が言った。
しかし、その声は、彼の耳にはほとんど届いていなかった。
彼は影に目を奪われ、身動きができなかった。

その時、突然、空が暗くなり、激しい風が吹き荒れた。
学は恐怖に震え、声を上げようとしたが、言葉が出てこなかった。
黒い影がゆっくりと彼に近づき、彼の心を締め付けていく。
尻尾のようなものが彼の足元を這い、学は恐怖で身動きが取れなくなった。

「この山は私のものであり、忘れ去られた者たちの場所だ。」陰の声が響いた。
それはまるで鬼のような響きだった。
学は何かに取り憑かれているように感じ、恐怖に飲み込まれそうになった。
彼の心の奥深くに押し込められていた、孤独の記憶が呼び戻されてくる。

「私を忘れないでほしい。」学は必死で心の声を掻き消そうとした。
しかし、その時、彼は気づいた。
周囲の人々が、真の恐怖をはらんだ鬼のように無関心であることに。
「彼らはもう気づいていない。消えてしまったのだ。」その考えが、彼の心をさらに締め付けた。

突然、影が彼の方に飛びかかると、彼は目を閉じた。
しかし、次の瞬間、友人の声が響き渡った。
「学!大丈夫か?」目を開けた学は、友人たちが彼に寄り添い、心配そうにしている姿を見た。
影は消えていた。

「何か見たのか?」友人の一人が尋ねる。
学は言葉に詰まりながら、「あの影は──」と声を震わせたが、言葉が続かなかった。
彼は心の奥に潜む恐怖を思い出しながら、彼の無関心が生み出したものかもしれないと思った。

その夜、彼は収まらない恐怖とともに、何度も鬼の思い出が消えたのだと念じながら眠りについた。
朝が明けると、彼は自らを元の世界に戻すための祈りを捧げた。
忘却の影に飲み込まれないためには、彼自身が存在することを強く願わなければならなかった。

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