「忘却の影」

夜の静けさが町を包む中、佐藤の家は他の家々と同じように点灯されていた。
しかし、彼の家だけが妙に静まり返っていた。
佐藤は独りで住んでおり、日々の忙しさに追われつつも、心の奥にはある狂気を抱えていた。

佐藤は毎晩、決まった時刻に近所の古い神社へと足を運ぶことを習慣にしていた。
神社には、かつて彼が大切にしていたが、病気で亡くなった愛する人が祀られていた。
その人の思い出は、彼にとってかけがえのないものであり、時折、彼が作り出す狂気の象徴ともなっていた。
喪の思いを抱えた彼は、正気を保つために何度もその神社を訪れるのだった。

ある夜、いつものように神社に向かうと、異様な空気が漂っていた。
薄暗い中で、彼の周りには静寂だけが広がっており、辺りはまるで彼を拒絶しているかのようだった。
佐藤は心の不安を振り払うように、神社の境内に足を踏み入れた。

彼が祈りを捧げていると、突然、背後からひんやりとした風が吹き抜けた。
振り返ると、そこには真っ白な顔をした女の霊が立っていた。
彼女はかつての愛する人、しかしその表情は無表情で、何かが狂っているかのようだった。
佐藤の心に、喪失感と恐怖がずしんと押し寄せた。

「あなたは誰?」と佐藤は尋ねた。

幽霊は言葉を発しなかったが、その目は彼をじっと見つめていた。
その視線に触れた瞬間、佐藤は何かがほころび始めるのを感じた。
彼の心に潜む狂気が、徐々に現実を侵食してきたのだ。

佐藤は彼女に近づこうとしたが、何かに阻まれているような感覚が彼を包み込む。
その時、彼の中にいる愛する人の思い出が闇のように深く広がっていく。
彼はその感情に捕らわれ、狂気へと飲み込まれていった。

「時を戻して、君を救いたい」と佐藤は叫んだ。

「時は戻らない」と、どこからともなく小さな声が響いた。
彼はその声の正体を恐れ、目の前の霊に手を伸ばした。
しかし、彼女は一瞬のうちに消えてしまった。
佐藤は呆然としたまま、そこに立ち尽くしていた。

帰宅しても、彼の心の中に残された狂気は消えなかった。
彼は日常生活の中でも、愛する人を求めるあまりに現実との接点が薄れていくのを感じていた。
家の中には何もないはずなのに、彼女の存在を求める思いは、まるで生きているかのように感じられた。

喪失の痛みが日々の生活に重くのしかかり、彼はその思いから逃れようと必死にもがいていた。
しかし、狂気は彼を癒すはずの思い出さえ淫靡なモンスターへと変えていく。

月日が経つにつれ、佐藤は日常の中に存在する狂気に目を向けなくなり、ただその影に囚われ続けた。
神社への訪問も頻繁に行うようになり、そこでは彼女の影に追われる日々が続いていた。

「私を忘れないで」と、彼の心に響く囁き。
彼はそれが愛する人の言葉だと思い込むことで自らを慰めていたが、それは次第に彼を狂わせる恐るべき呪縛になっていった。

ある夜、佐藤は神社の境内で再び彼女に出会う。
しかし、今度は彼女の顔が歪み、狂った笑みを浮かべていた。
彼は恐怖に震え、その場から逃げ出そうとしたが、足が動かなかった。

「私を忘れられるはずがない」と声が響き、佐藤は彼女の視線を受ける。
彼の心の狂気が具現化した瞬間、彼は全てを理解した。
愛する人との別れを受け入れられず、狂気の中で喪失し、そして正気を失った自らの姿を。
彼はその時、逃げることも、戻ることもできないその場から動けなかった。

佐藤の心は、ますます闇の中へと引き込まれていく。
彼の目の前に現れたのは、かつての愛する人ではなく、彼が創り上げた狂気の化身だった。
そこで彼は、永遠にその影の中でさ迷い続けることを決めてしまった。

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