夜が深まり、静かな町の片隅にある小さな図書館が、何か不気味な雰囲気を醸し出していた。
その図書館には、古びた本が数多く所蔵されており、その中には人々が忘れ去った過去や、失われた思い出が詰まっていると言われていた。
そんな図書館の司書を務める田中恵美は、いつもと変わらぬ日々を送っていたが、ある晩、奇妙な現象に遭遇した。
その夜、恵美は夜遅くまで図書館で本を整理していた。
外は冷たい風が吹きすさみ、薄暗い廊下には陰影が踊っていた。
彼女はふと、奥の書架から不気味な本が覗いているのに気がついた。
表紙には何も書かれていない黒い本だった。
その本は、どこからか引き寄せられるように彼女の目を引きつけた。
興味を持った恵美は、その本を手に取ってページをめくり始めた。
ページを開くと、中には見たことのない文字がぎっしりと並び、意味をなさない言葉ばかりだった。
しかし、ページをめくるたびに不思議な感覚が彼女を包み込み、まるでその文字たちが彼女の過去や忘れた思い出に繋がっている気がした。
次第に彼女は分からない感情に襲われ、自分の心の奥深くに眠っていた記憶が浮かび上がってくるのを感じた。
その夜、恵美は夢の中で自分の過去に遭遇した。
彼女は子供の頃に遊んでいた公園、友達と笑いあった日々、そして家族との温かい時間を思い出した。
それらの思い出が鮮やかに蘇る一方で、現実との間に生じる逆の感覚が彼女を苦しめた。
覚えていたはずの出来事が、まるで新たに書き換えられているかのように感じた。
夢から覚めた恵美は、昨夜の不気味な本の存在が頭から離れなかった。
彼女は、自分の中に潜む記憶の断片に何かが逆に作用していることを実感した。
それはまるで、彼女が覚えていたことがどんどん消え去り、代わりに他人の思い出が彼女の中に入り込んできているようだった。
日が経つにつれて、恵美は周囲の変化に気づくようになった。
彼女の友人たちとの会話が不自然で感じられ、自分だけが知らない何かがあるような気がした。
友人の佐藤は、以前には彼女について話したことがあるはずの出来事を全く覚えていないと言った。
まるで恵美の思い出が逆転し、彼女だけが孤立しているかのようだった。
さらにある夜、恵美は再びその本に手を伸ばした。
今度は中に描かれた絵を目にした。
それは彼女の知らない景色、誰かの知っている場所のようだった。
記憶にない自分でありながら、その場面を見ているかのような感覚が突き刺さった。
そして、ページをめくるたびに、過去の記憶の奥で揺れ動く何かを感じ取った。
恵美はそのことに危機感を覚え、再び図書館の書架に本を戻す決意をした。
しかし、彼女が本を戻そうとすると、突然その本がしたり顔で彼女の思いを見透かしたように、辺りが暗くなり、本の中から何かが引き出される感覚に襲われた。
彼女は「戻れない」と叫びながらも、知らぬ間に記憶がすり替わり始めた。
恵美の記憶は次第に他人のもので埋め尽くされ、彼女自身の存在が消えかけていることに気づいた。
彼女は途方に暮れ、何とか元の自分を取り戻す手段を探し続けた。
しかし、逆に進む時の流れに抗うことはできず、図書館の中で彼女は何度も捕らわれ、未だ記憶の海の中で失われた自分を探し続けていた。
それから長い時間が経ち、誰もが恵美のことを忘れた頃、彼女は図書館の奥の書架の中に消えたまま、もう戻ることのなかった忘れられた存在となっていた。
それは、覚えることが恐ろしいものであるという、謎の教訓を残して。