それはある霧の深い夜、田舎に佇む古い屋敷の中での出来事だった。
名は健太、28歳。
彼は久しぶりに実家に帰省し、子供の頃に遊びまわったこの家を訪れた。
だが、幼い頃の思い出が蘇るにつれ、彼の心には不安が広がっていく。
特に、屋の二階には絶対に近づいてはいけないと母から言われていた部屋があった。
その部屋には、亡くなった祖母が大切にしていた露を用いた珍しい置物や、お祝い事の際に使われていた色鮮やかな着物がしまわれていた。
しかし、子供の頃の彼は、その部屋の存在を恐れていた。
母は「そこには、忘れ去られた思い出に憶われた何かがいる」と言っていた。
それでも興味は尽きなかった健太は、幼い頃の恐怖心を振り払い、ついにその部屋へ足を運ぶ決意をした。
彼は懐中電灯を手に持ち、静かに階段を上がっていった。
二階の廊下に着くと、不気味な静寂が彼を包み込む。
冷たい空気が彼の背筋をなぞるように流れ、何かが彼を呼んでいるような感覚に襲われた。
健太はドアの前に立ち、深呼吸をしてからノブを回し、扉を開けた。
部屋の中は薄暗く、ほこりを被った家具と共に、祖母が愛用していた置物たちが静かに佇んでいる。
彼は懐かしさと同時に、何か不気味な気配を感じた。
目が慣れるにつれ、彼はその中にひときわ目立つ着物があるのを見つけた。
鮮やかな赤色のその着物は、寒い冬の日の光を思わせるような温かさを持っていた。
手が勝手に伸び、彼はその着物を手に取った。
瞬間、思い出が鮮明によみがえってきた。
子供の頃、祖母から聞かされた話、家族のお祝い事、そして彼の心を満たす温かい記憶。
しかしその記憶は徐々に変わり始めた。
祖母がいつも脇にいたと感じるその瞬間、彼の耳に微かに「私を忘れないで」という声が響いた。
驚いて振り返ったが、誰もいない。
健太は背筋に寒気が走り、部屋から出ようとしたが、何かが彼を引き留めた。
触った着物の影響なのか、彼の視界は暗くなり、彼の目の前に輪郭のない影が次第に現れた。
影は彼の祖母の姿を模しているように見えた。
肌は青白く、その目はどこか無表情だ。
「私を憶えていますか?私のことを忘れないでほしい」と影は囁いた。
彼は混乱し、「忘れるわけがないだろう!」と叫んだ。
だが、影は続けて言った。
「忘れるのは、許されないこと。あなたが私を忘れた時、私もあなたを忘れなければならないのです。それが運命なのですから。」その言葉を聞いた瞬間、健太は体の自由を奪われ、ただその場に立ち尽くすしかなかった。
周囲に冷たい風が吹き抜けるように感じ、彼の心に深い恐怖が浸透していく。
自分の心の中で、祖母と過ごした日々の思い出が成長していくのを感じた。
彼は未だに祖母を愛している。
しかし、その思い出が彼を囚え、そっと彼の命を脅かすようになった。
その時、彼は「私を忘れないで」と語りかける祖母の存在をただの幻想ではないと思った。
彼が消えることは、祖母の存在が消えることなのかもしれない。
ついに日が落ち、健太は恐怖のあまりその場を飛び出した。
二階の廊下を駆け降りると、頭の中で何かが炸裂するような感覚が広がる。
彼は玄関のドアを開け、外に飛び出した。
夜の霧の中に溶け込むようにして、彼はその屋敷を振り返った。
彼の心にはまだ、「私を忘れないで」という祖母の声が残っていた。
彼は振り向くことなく、夜の闇へ消えていった。
それ以来、健太が二度とその屋に戻ることはなかった。
ただ、その屋敷は今もひっそりと佇み、彼の運命の輪の静寂を守っているのかもしれない。