山田直樹は、大学の近くにある古びたアパートに住んでいた。
彼は一人暮らしを始めたばかりで、新しい生活に胸を弾ませていたが、周囲の環境には少し不安を感じていた。
住んでいるアパートは、見た目は普通だったが、噂によるとこの家には昔、女性が住んでいて、彼女はある事件によってこの世を去ったというのだ。
ある晩、直樹は勉強に疲れ、いつの間にか眠りに落ちてしまった。
ふと、夢の中で彼は一人の女性に出会った。
彼女の名前はさやか。
長い黒髪を持った美しい女性で、ほんのりとした微笑みが印象的だった。
しかし、その目にはどこか悲しみが漂っていた。
彼女は夢の中で、直樹に優しく囁いた。
「あなたに会いたかった。ずっと、待っていたの。」
夢から覚めた直樹は、心臓が高鳴るのを感じた。
彼はさやかのことが忘れられず、日常生活の中で彼女の姿を思い出した。
何度も夢を見続けるうちに、さやかに対する親しみが増し、まるで彼女が本当に自分の目の前にいるような気がしてきた。
しかし、次第に彼の周囲で奇妙な現象が起こり始めた。
ある日の朝、直樹は部屋に異様な気配を感じ、振り向くと、さやかの顔が目の前に現れた。
驚いた直樹は思わず後退したが、さやかは微笑みながら手を差し伸べてきた。
「私を恐れないで。あなたと一緒にいたいの。」その声は甘く、魅力的だったが、同時にどこか不気味でもあった。
その日以来、直樹は異なる姿のさやかに何度も遭遇するようになった。
彼女は部屋のあちこちで現れ、時には彼の肩に触れることもあった。
彼女の存在は次第に彼の日常に溶け込み、やがて直樹はさやかとのつながりを本当に感じ始めていた。
しかし、その一方で、彼の心のどこかには、彼女がただの夢の存在ではないという不安も残っていた。
直樹は、アパートの古い住人たちの話を思い出した。
この場所の過去を知りたいと考え始め、調べることにした。
ネットや文献を通じて、数週間かけて得た情報は、さやかにまつわるものだった。
彼女はその昔、恋人の裏切りによって命を絶ったという。
直樹の心に恐怖が広がった。
彼女は救いを求め、同時に彼を自身の世界へ引き込もうとしているのではないかと。
徐々に直樹は、彼女からの引き寄せが強くなり、逃れたくても逃れられない状態に陥ったのだ。
ある夜、直樹は再び夢の中でさやかに会った。
彼女は涙を浮かべて「私を忘れないで、あなたにすべてを与えたい。」と言った。
直樹はその言葉に心が揺れた。
「でも、あなたは私を憑いている。私の未来を消そうとしているんだ。」と彼は返した。
さやかは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに笑顔を取り戻した。
「それでもかまわない。私のものになって、永遠に一緒にいよう。」
夢から目覚めると、直樹は自分の心が恐れと欲望に引き裂かれていることを実感した。
彼はさやかに囚われつつも、未来を思い描こうと必死だった。
正直な気持ちを告げるかどうかで悩んでいるうちに、次第に彼の体はしびれていく感覚に襲われた。
「私は本当に、あなたを残すことができない」と直樹は心の奥で叫んだ。
するとその瞬間、部屋全体が響くように冷え冷えとした空気が流れ、さやかの声が耳元で繰り返された。
「忘れないで、私を…」
それ以降、直樹の姿はアパートに消えた。
彼の友人たちが彼を探し回ったが、見つかることはなかった。
ただアパートの一室には、まるで彼が今もいるかのように、温もりを感じることができる空間だけが残っていた。
