彼は毎朝、同じ駅から会社に通っている。
小さな町の古びた駅、朝日の昇る時間帯には、乗客がまばらでいつも静かだ。
そんな駅で、健二は一度だけ不思議な体験をしたことがあった。
それは、彼が一年前に目撃した出来事だった。
いつもと変わらず駅のホームで列車を待っていると、ふと視線を感じた。
ホームの向こう側に、ひとりの女性が立っていた。
彼女は真っ白な服を着ていて、長い黒髪を揺らしながら、じっと彼を見つめているようだった。
気になった健二は、視線をそらさずに彼女を見続けた。
しかし、その瞬間、列車が到着し、大きな音を立てて彼女の姿は掻き消されてしまった。
以降、健二はその女性のことを忘れることができなかった。
月日が経ち、彼の心の片隅にその出来事が引っかかっていたが、次第に日常が戻り、思い出すこともなくなっていた。
ところが、ある晩、健二は駅に遅くまで残っていた。
仕事が終わった後の一杯のコーヒーを飲むため、彼はいつもの駅で再び待っていた。
しかし、周囲は暗く、誰もいなかった。
と、その時、背後から声が聞こえた。
「健二さん、待っていました。」振り向くと、そこにはあの白い服の女性が立っていた。
彼女の目は以前よりも深く、彼を見つめ続けていた。
「君は…どうしてここにいるの?」健二は恐怖に駆られながら尋ねた。
彼女は微笑みを浮かべたが、その笑顔には何かぞわぞわするものがあった。
「私を見つけてくれてありがとう」と彼女は言った。
「あなたは私のことを忘れないでいてくれたのですね。」その声は柔らかいが、どこか冷たさを感じさせる響きがあった。
健二は言葉が出なかった。
周囲には静けさが漂っていたが、彼の心臓だけが大きく鼓動していた。
「私は皆に忘れられた存在なんです。何度も戻ってきたのに、誰も私に気づいてくれない。でも、あなたは私を見てくれました。」彼女の話を聞くうちに、健二の頭の中には苦い記憶が呼び起こされた。
彼もまた、過去に会った人たちのことを何度も思い出しては、忘却の彼方へと流していた。
彼女は、その象徴だったのだ。
その時、健二は彼女が何か助けを求めているのだと感じた。
だが、どうすればいいのか分からなかった。
「私は…、何を手伝えばいいの?」彼女は微かに頷き、再度目を細めて健二を見つめた。
「私が戻るための方法を見つけてください。私が望むのは、忘れ去られたくないということ。」その瞬間、健二の心が冷たくなった。
彼は自分自身も、失った記憶と向き合わなくてはならないのだと悟った。
それから数日間、健二は日常の中であの女性のことを考え続けた。
駅での出来事が頭にこびりついて離れず、一度自分の過去に戻り、その感情を再確認することが必要だと感じ始めていた。
彼はもともと心の深いところに眠っていた記憶を呼び覚まし、その人たちともう一度向き合おうと決意した。
再び駅に向かうと、今度はあの女性がどこにいるのかを探す心構えができていた。
ホームで待っている間、周囲の人々を観察した。
しかし、彼女は現れなかった。
時間が経つにつれ、彼の心の中に不安が忍び寄る。
「あの女性に会えなかったら…どうしよう。」
突然、彼の視界が揺らぎ、目の前に白い服の女性が現れた。
彼女は静かに笑い、彼を見つめた。
安心の瞬間が広がる。
「あなたは戻ってきたのですね」と健二は呟く。
しかし、女性の笑顔の奥には深い悲しみが伺えた。
「私はここにずっといます。でも、戻る準備ができていないの。」彼女は再び静かに微笑んだ。
その瞬間、健二は心の奥底で彼女が成仏できるよう、助ける存在になりたいと願った。
しかし、彼にはそれができるのか、全く分からなかった。
ただ彼ができるのは、彼女の存在を忘れないこと、認めることなのだ。
再び神秘的な静けさが駅に広がり、健二は成仏への道を模索しながら立ち尽くしていた。
彼の中に強い使命感が芽生えていくことを感じながら。