「忘れられた酒場の声」

彼女の名前は佐藤恵美、30歳。
彼は北海道の田舎町にある古い居酒屋で、日々バイトをしていた。
居酒屋の名前は「古の酒」。
店内には、昭和の雰囲気が色濃く残り、なつかしさを感じさせる。
店の奥には、カウンター越しに飾られた古い写真があった。
そこに写るのは、かつてこの居酒屋を営んでいた夫婦だった。

ある晩、恵美は居酒屋の閉店準備をしていると、突然、店の奥からかすかな声が聞こえた。
「もう一杯、もう一杯…」それは女の声だった。
恵美は耳を疑った。
閉店後、誰もいないはずの店内に女がいるなんて。
しかし、彼女は気のせいかと思い込み、無視して掃除を続けた。

翌日も同じ現象が続いた。
恵美が雑巾でテーブルを拭くと、再び声が聞こえてきた。
「お酒をちょうだい…」今度は少し切実な響きがした。
恐る恐る、その声の方へ近づくと、奇妙なことに奥の壁に飾られた写真に目が止まった。
そこには、かつてこの居酒屋を切り盛りしていた女性の姿がある。
優雅な笑みを浮かべているが、その目はどこか寂しさを秘めていた。

恵美はその女性に近づくと、ふとした瞬間に彼女の目が動いたような気がした。
驚いて後退り、どうにか気を取り直して洗い物を続ける。
しかし、その晩もまた声がした。
「もう一杯…」今度は飲みたいのか、求める気持ちがはっきりと感じられた。

その日以降、恵美は友人の田中を呼んで出来る限りの準備をして、異常事態に立ち向かうことにした。
田中は冗談交じりに、「居酒屋の霊にでも取り憑かれたか?」と言ったが、恵美は真剣に感じていた。
「君も一緒にいてよ、何か起こるかもしれないから。」

閉店後、二人はカウンターに座り、肝試しのつもりでお酒を飲むことにした。
月明かりが差し込む静かな夜、居酒屋の空気が少し張り詰めた。
恵美が不安になった瞬間、「もう一杯!」という声が明確に響いた。
田中は驚いた顔で恵美を見つめ、やがて二人は何が起こっているのか話し合った。

その時、男の声も混じり始めた。
「おい、待ってくれ!」一瞬、居酒屋の空間が歪むように感じた。
目の前の壁にかけられた写真がぼんやりと揺れ、そして二人は一体何が聞こえているのかわからなくなった。
恐怖に駆られた恵美は、先ほどの女性の存在に何かしらの結びつきを感じていた。
彼女は過去の居酒屋に対する未練や、愛しい人との別れがあるのだと直感した。

すると、田中が気付いた。
「この人たち、もしかして…昔の客じゃない?飲みすぎてそのまま…」恵美の心に恐怖が過ぎる。
忘れられた存在の声が今、この居酒屋に渦巻いている。
女の声はより強くなり、男も拍車をかけるように叫んだ。
「一緒に飲もう。私たちを忘れないで…」

恵美は思わず、居酒屋の酒を並べて、二人のために酌み始めた。
「これが、あなたたちの好物かな、飲んでください。」空のグラスには、確かに二人の影が映り込んでいるように見えた。
それから、居酒屋の雰囲気が変わり始め、空気が温かく包まれた。

恵美は気が付けば、彼女の周りを取り巻く不安が静まり返り、過去の居酒屋が再び生き生きと息づく感覚に包まれた。
ふと床を見下ろすと、二人の霊は穏やかな笑みを浮かべていた。
その瞬間、彼女はこの居酒屋が本当に忘れ去られることのない場所で、大切な思い出を持つ空間だと実感した。

「もう一杯、どうぞ。」恵美の声に、かつてこの場所を愛した人々の思いが交じり合い、居酒屋の灯りは揺れ動く。
彼女の心の中にある不安は消え去り、この古の酒は、記憶を蘇らせた。

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