街外れの道を歩いていた佐藤健一は、いつもと違う雰囲気に気づいた。
薄暗くなり始めた夕暮れ時、彼の周囲にはいつも賑やかな街の喧騒が感じられず、ひっそりとした静寂だけが広がっていた。
何かが彼を引き寄せるように感じ、彼は道を外れ、そのまま進んでいった。
その道は、かつては家々が並んでいたが、今では廃墟となり、むき出しのコンクリートの壁が崩れかけていた。
健一は興味を引かれながら、その古びた壁を眺めた。
そこには、不気味な絵が描かれていた。
人々の顔、そして奇妙な動物が混在している。
まるで、彼の心の中に触れてくるように不気味であった。
突然、健一は後ろから「ま、助けて……」という声を聞いた。
振り返るが、誰もいない。
慌てて歩き出した足を止め、耳を澄ませる。
もう一度、その声が聞こえた。
「ま、お願い……、ここにいるから……」彼の心臓は早鐘のように高鳴り、背筋が凍る思いがした。
その時、健一は何かが壁の向こうから自分を見つめている気配を感じた。
壁を見ると、明らかに変化が生じていた。
彼が最初に見た時には見えなかった、無数の手が壁の隙間から覗いていたのだ。
まるで、壁が何かを吸い込もうとしているかのように、手が少しずつ動いていた。
その手は、かつてここに住んでいた人々のものなのだろうか。
恐怖に駆られた健一は逃げ出そうとしたが、無意識のうちに声の正体に惹かれていた。
彼は再び「ま、助けて……」という声を聞く。
声は徐々に近づいてくるようで、不気味な気配はますます強まる。
「憶えているか、俺たちのことを……」その言葉が、壁の向こうから響いた。
思い出す。
健一の祖父が語っていた、昔この街に住んでいた家族のこと。
何代にもわたって、この道が彼らの生活の一部だったという。
だが、ある日、誰もが姿を消し、その家族はこの地で忘れ去られた。
戻れないまま、憶えられないまま、彼らはこの壁の中で彷徨っているのだ。
健一は恐怖と好奇心交じりの気持ちで一歩踏み出した。
壁に手を当てると、その温もりと冷たさが彼の感覚を混乱させた。
「記憶を、分け合おう」と、壁がささやいた瞬間、彼の脳裏に過去の映像が浮かび上がった。
かつての街の姿、笑い声、楽しむ子供たちの姿。
それは彼が持ち続けていた思い出であり、彼の心に深く刻まれていた。
「あなたたちのことを忘れない。私が語り継ぐから」と彼は壁に向かって言った。
すると、壁は微かに揺れ、手が一瞬だけ引っ込んだ。
その隙間から、かつての住人たちの悲しみに溢れた目が見えた。
彼らはただ、誰かに自分たちの存在を認識してもらうことを求めていたのだ。
今まで感じたことのない感情が胸を締め付ける。
彼はその瞬間、喪失感が彼の心を埋め尽くすのを感じた。
警鐘が鳴るほどの恐怖が、彼の心の奥底に根を張った。
しかし、同時に彼は彼らの名前を口にする勇気を持っていた。
「あなたたちの存在を、語り継ぐ。決して忘れない。」
強い決意を抱いた健一は、街へと戻り、その夜、かつての住人たちの物語を語り始めた。
彼は彼らの記憶を忘れないために、語り継ぐことが彼に課せられた運命なのだと理解した。
そして、今夜も誰かがその道を通り抜けるとき、彼らは耳を傾けることだろう。
語られた物語の中で、彼らは再び生きることができるのだから。