古びた舎(いおり)に宿る霊の名は佐藤美咲(さとうみさき)だった。
彼女はかつて、この地で小さな宿を営んでいたが、ある悲劇によって命を落とすこととなった。
美咲の宿は、今でも誰かが訪れるのを待ち続けているようだった。
ある夏の夜、若いカップルである健太(けんた)と沙織(さおり)は、旅行の途中でこの舎に泊まることにした。
宿の古びた外観は、初めて見る者に不安を与えたが、なぜか引き寄せられるようにここに泊まることを決めた。
宿の中に入ると、木の香りが漂い、どこか懐かしい雰囲気を感じた。
「ここ、いいところだね」と健太が言うと、沙織も頷いた。
だが彼女の心の中には、不安が少しだけうずいていた。
宿の主人は、彼らを笑顔で迎え入れ、部屋を案内した。
壁には美咲が描いたと思われる絵が飾られており、彼女の優しい目がじっと見守っているように感じられた。
初めは平穏無事に過ごしていた二人だったが、夜が更けるにつれて、奇妙な現象が起こり始めた。
深夜、沙織がふと目を覚ますと、部屋のどこからともなく静かな音が聞こえてきた。
誰かが話すような、微かな声だった。
驚いて健太を揺り起こすが、彼は熟睡していた。
「ねえ、聞こえる?」沙織は震える声で言った。
健太は不機嫌そうに「なんだよ、夢じゃないか?」と言い、再び眠りにつこうとした。
しかし、沙織はその声に耳を傾け続けた。
それは「助けて…」という声にも聞こえた。
翌朝、沙織は健太に昨夜のことを話した。
健太は笑った。
「そんなの気のせいだよ。ただの古い宿だから、音が響くんだろう。」沙織は納得できないまま、朝食を取りながら不安が募っていった。
その夜、再び同じ声が聞こえた。
今度ははっきりとした女性の声で、「私を…忘れないで…」とささやかれた。
沙織は恐怖にかられ、もう一度健太を起こそうとしたが、今度はその声に引き寄せられ、部屋を出る決心をした。
宿の廊下を静かに慎重に歩くと、音の正体が分かるようだった。
声の主は、舎の奥から響いていた。
沙織は恐る恐るその場所に近づいていくと、そこには古びた扉があった。
彼女はドキドキしながら、その扉を開けると、真っ暗な部屋が広がっていた。
その部屋の中央には、一つの鏡が置かれていた。
沙織は思わず鏡に近づくと、映り込んだ自身の姿の背後に、かすかに美咲の姿が映った。
彼女の目は悲しみに満ち、助けを求めるかのように沙織を見つめていた。
「どうして私を忘れようとするの…」その声が子守唄のように響く。
沙織は心の底から美咲の痛みを理解した。
彼女は過去に囚われ、助けを求めながらも誰にも認められずにいたのだ。
沙織は美咲に手を差し伸べ、 whispering to her, “I won’t forget you.”
その瞬間、部屋は穏やかに包まれ、美咲の表情が少しずつ和らいでいくのを感じた。
彼女が求めていたのは、忘れられることではなく、自分の存在を理解してくれる誰かだった。
沙織は「あなたのことを忘れない。私はちゃんと覚えているよ。」と告げた。
その言葉に、美咲の姿は美しい笑顔へと変わり、暗がりの中から光を放ちながら消えていった。
音は静まり、舎は平穏を取り戻した。
沙織はその場で感じた安堵に包まれ、無事健太の元に戻った。
翌朝、何事もなかったかのように目が覚めた二人は、宿を後にした。
しかし、沙織の心には美咲の存在がしっかりと根付いていた。
彼女は今後、誰も忘れない宿の物語を語り継ぐことを決意した。
それが、美咲の求めていた「真実」だったのだ。