「忘れられた声の行方」

静かな田舎町にある古びた一軒家。
住人は川村健一という中年の男性で、長年一人でその家に住んでいた。
彼は作品の完成に没頭する作家だったが、最近は何かに取り憑かれたかのように夜遅くまで机に向かっていた。
家にはあまり人の気配がなく、彼の創作活動にとって、静けさは必要不可欠だった。

しかし、その夜、健一の耳に不気味な声が響き始めた。
最初は風の音か何かだと思っていたが、その声は「お助け…」と呟くかのようにかすかに聞こえる。
気のせいだと思い、自分を励まし続けたが、次第にその声は明瞭になり、健一の心をかき乱すようになった。

声の正体を探ろうと、彼は家の中を歩き回った。
すると、ふと廊下の奥にあった物置が目に入った。
物置には、亡くなった母親が大切にしていた昔の品々が詰まっている。
気になった健一は、物置のドアを開けることにした。

その瞬間、冷たい空気が胸を締め付けた。
物置の中は暗く、隅には古い鏡が立てかけられていた。
何気なく鏡を見つめると、そこに映し出されたのは、彼の背後に立つ誰かの影だった。
それは、薄暗い空間にぼんやりと現れた女性の姿だった。
健一は驚き、思わず後ろを振り返ったが、誰もいなかった。

再び鏡を見つめると、女性は微笑んでいるかのように見えた。
しかし、その笑顔にはどこか悲しみが滲んでいた。
「助けて…」と再び彼女の声が響く。
恐怖とは裏腹に、健一は何か引き寄せられるように、鏡の中の女性に心を奪われていった。

彼はその女性についての記憶を辿ってみた。
彼女は母親の妹で、彼が幼い頃に不幸な事故で亡くなった川村美代だった。
彼女の存在は家族の悲しみの一部として、ずっと心の片隅にしまい込まれていた。
美代への思いを再び蘇らせた健一は、その声の理由を察した。

「もし、私のことを思い出してくれれば、私はここから出られるの…」「私はあなたに何もできなかった。そのことを、ずっと後悔している。あなたのことを忘れているのか…」

彼女の言葉が鋭いナイフのように、健一の心に突き刺さった。
彼は母と美代を忘れ去ってしまったことに気づかされた。
家族の中での悲しみをずっと心に秘めて、著作活動に逃げ込んでいた彼は、今こそ彼女の存在を認めてあげるべきだと覚悟を決めた。

「美代…」と彼は呟いた。
「あなたを忘れていたわけじゃない。ずっと心の中にいた。でも、過去のこととして、逃げていたかもしれない。ごめんなさい。」

その瞬間、鏡の中の美代の表情が変わり、微笑みが広がった。
彼女は「ありがとう…」と優しく囁いた。
すると、ひんやりとした空気が緩み、物置の中に柔らかな光が差し込んできた。
美代の姿は次第に薄れていき、彼女の存在は静かにその空間から解放されていった。

その後、健一は家族の思い出を忘れず、自らの作品にもそれを反映させるようになった。
彼は毎晩、母や美代のことを思い出し、自らの心の中で彼女たちと向き合うことができるようになった。
声は二度と聞こえなくなったが、その代わりに、彼の創作は新たな深みを持つようになった。
悲しみが癒やされることはないが、彼なりの方法で彼女たちを忘れないようにしたのだった。

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