「忘れられた声」

不気味な静けさが広がる山里。
太郎は子供の頃からずっとその村で育ち、村の外れにある古びた神社が大好きだった。
しかし、年齢を重ねるにつれて、子供の頃の無邪気さは薄れ、神社への思い出も曖昧になっていた。

ある日、太郎は村の祭りで遭遇した若者たちとの会話の中で、神社にまつわる奇妙な噂を耳にした。
その神社には鬼が住んでいて、時折、訪れる者の声を真似る能力を持っているというのだ。
噂を聞いた太郎は興味を抱き、久しぶりに神社へ足を運ぶことにした。

神社に着くと、陽の光が木々の間から漏れ、神聖な雰囲気を醸し出していた。
しかし、太郎はその静けさに何か不気味さを感じ、懐かしい思い出に浸る余裕もなかった。
静まり返った境内で、彼は目を閉じ、幼い頃に遊んだ日々を思い出していた。
鬼の噂は気にせず、ただ心の中で故郷の景色を思い描いていた。

ふと、柔らかな風が吹き抜けた瞬間、太郎は耳元で微かな声を聞いた。
「太郎、帰ってきたのか?」その声は彼の幼少期の友人、健二の声にそっくりだった。
太郎は驚き、思わず振り向く。
しかし、背後には誰もいない。
彼の心臓は高鳴り、込上げる恐怖を押し隠しながら、もう一度耳を澄ませた。

「太郎、私はここにいるよ。君を待っていたんだ。」今度の声はよりはっきりとしていて、どこか懐かしさを感じさせた。
太郎は混乱しながらも、その声に導かれるまま、神社の奥へと進んだ。
足元の石畳が崩れているのは知っていたが、そのことを気にする余裕はなかった。

途中、また声が囁く。
「ここにいたとき、私たちは夢を見ていた。でも、君は私を忘れてしまった…」鬼の存在を思い描く余裕ができたとたん、太郎はその声の正体を考え始めた。
まさか、鬼が生み出した幻なのか?

やがて彼は、薄暗い社の奥に辿り着いた。
そこには一枚の古びた絵が飾られていた。
その絵は、鬼が描かれたもので、艶やかでありながら不気味さを孕んでいた。
その鬼は太郎の目を直視し、その表情はまるで彼を知っているかのようだった。

「お前が来るのを待っていた。」その声は鬼自身から発せられた。
太郎は一瞬、何が起こっているのかわからなかった。
しかし、思い出が次々と蘇ってきた。
鬼の隣には、幼少期の彼と健二の姿が映し出され、二人は仲良く笑っていた。

「私が死んだとき、お前はどう思った?私はずっとここにいる。お前の思い出の中に。」鬼の声は切なく響いてきた。
太郎はその言葉を飲み込み、記憶の中で事実がひしめき合うのを感じた。
彼は健二の事故死を忘れようとしていたのだ。

「帰れ。私の思い出を、今ここで確認しろ。」鬼の声は再び太郎の心に響く。
彼はどうしようもなく、記憶が重くのしかかってきた。
かつての自分を振り返り、失ったものは取り戻せないのだと気付く。

「私は忘れていない。君を、私たちの思い出を…」太郎は鬼に向かって誓うように告げた。
その瞬間、神社の周りが明るく照らされ、太郎は鬼の顔を再び見る。
鬼の顔には、哀しみと優しさが混ざり合った表情が浮かんでいた。

「ならば、私を許してくれ。」その声は薄れていき、太郎の目の前には明るい光の道が開けた。
彼はその道を歩き出し、長い間失っていた懐かしい思いを心に抱えながら、一歩一歩進んでいった。

鬼の声は次第に遠くなり、太郎はこれからもその思い出を胸に生きていこうと決意した。
声に導かれた帰り道、彼の中には新たな光が差し込み、過去の思い出だけでなく、これからの未来へと繋がっていく希望が生まれたのだった。

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