「忘れられた声」

ある静かな冬の夜、道子はひとりで帰宅する途中だった。
街灯が薄暗く照らす道を一歩一歩進むと、まるで冷たい風が彼女の背中を押しているかのように感じた。
道は長く続き、周囲には誰ひとりとして見当たらない。
その孤独感が彼女の胸を締め付けた。

そんな時、道子はふと立ち止まった。
道のどこかから微かに聞こえる声に、心が引き寄せられたのだ。
その声はかすかで、まるで悲しみを湛えた調子で響いてくる。
「道子…”という声が、それを尋ねる友人の名前のように耳に残った。彼女は振り返るが、そこには誰もいなかった。

その夜、道子は自宅に戻っても、あの声が頭を離れなかった。夢の中でも、同じ声が聞こえる。いつも同じ内容だった。「道子、私を忘れないで…」目を覚ますと、何とも言えない重苦しさが彼女を包んでいた。
恐ろしいほど透明な、薄気味悪い夢だった。

数日が過ぎ、道子はその声に怯えながら日常を過ごしていた。
だが、その声には彼女の心に呼びかける、かすかな愛が込められているように思えた。
そして、彼女は夢の中に現れるその存在が、かつての恋人であるあゆみだということに気づいた。

道子はあゆみとの思い出を辿る。
彼女との関係はとても愛に満ちていたが、ある事故によってあゆみはこの世を去ってしまった。
道子は彼女を救えなかったことを、ずっと悔いていた。
あゆみの願いが夢の中で呼びかけてきたのは、彼女が何かを訴えたかったからだろうか。

その夜、道子はあゆみを思い出しながら眠りについた。
するとまた夢の中で、あゆみが現れた。
白いドレスを着て、透き通るような微笑みを浮かべている。
彼女の眼差しの中には、切なる依頼と愛が詰まっていた。

「道子、私を呼んで…私を忘れないで…」その言葉は、どこまでも悲しげで、道子の心に深く突き刺さる。
道子はそのままあゆみの手を取りたくてたまらなくなった。
「どうすればあなたを救えるの?」道子は心の叫びを込めて問いかけた。

すると、あゆみは彼女に向かって微笑んだ。
それは夢の中の彼女とは思えないほど生き生きとした笑顔だった。
「私の愛が道を照らすから、心に留めて…」その瞬間、道子は深い悲しみに包まれた。
彼女を忘れないためにどうすればいいのか、答えは分からなかった。

道子は目を覚ますと、心底安堵した。
だが、現実は彼女を許してはくれなかった。
夢の中でのやり取りは何度も繰り返され、その度に道子はあゆみを求め、愛の記憶を消すことができなかった。
彼女の心に訴えかける声が、彼女の生きている時間を苛んでいく。

ある晩、道子はまた夢の中に入り込んだ。
そこに立つあゆみは、以前よりも悲しい表情を浮かべていた。
「私を助けて…。忘れられることが、私の一番の恐怖よ。」その瞬間、道子は彼女の気持ちを理解した。
あゆみの愛は、彼女に依存しているのだと。

道子は思った。
“私があなたを忘れなければ、あなたのことを愛し続ければいいのか?”それがどんなに辛いことでも、彼女の存在を心に留めることで、あゆみの思いを代償として受け入れることができる。
彼女はようやく、理解できたのだ。

その夜、道子は決心した。
あゆみとの思い出を手放さず、夢の中でも彼女を救う愛を続けることに。
そして、目を閉じるたびに、道の奥から聞こえるあゆみの声を大切にすることを誓った。
心の中で、彼女の愛を永遠に感じながら。

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