「忘れじの影」

静まり返った寺院。
木々のざわめきが遠くに響く中、村人たちはひっそりと訪れる。
その寺は、長い歴史を持ち、人々の信仰の場でもあった。
しかし、最近、そこには不穏な噂が立ち始めていた。
かつて霊的な力を持つ僧侶が住んでいたが、その後姿を消し、寺は荒れ果てていったのだ。
人々が恐れるのは、彼が未練を残したままこの世に留まっているのではないかということだった。

ある晩、高橋健太は友人の佐藤明と共に、その寺を訪れることを決めた。
彼らは噂を確かめようと、肝試しに出かけたのだ。
寺はいつもとは違う静けさに包まれていた。
月明かりが薄暗い廊下を照らし、忌まわしい雰囲気を増幅していた。

「ここの噂、信じてるのか?」健太は笑いながら言った。
「どうせ何もないだろう。」

「でも、あの僧侶の話は気になるな。なんでも、彼の気配を感じた人は、すぐに失踪するらしいぜ。」明は目を輝かせながら返した。

その瞬間、寺の奥から微かな音が聞こえた。
ふと、二人は顔を見合わせた。
勇気を振り絞って寺の奥へ進むことにした。
扉を開けると、ほの暗いお堂が目に入った。
そこには古い仏像が安置されていたが、彼らの心を不安にさせるものがあった。
それは仏像の背後に、一つの影が揺れているように見えることだった。

明が後ろを振り向くと、お堂の暗闇に誰かが立っているように見えた。
「おい、見ろ!」明は声を上げた。
しかし、影はすぐに消えてしまった。

「冗談はやめろ、怖がらせるなよ…」健太は不安になりながらも、自分を鼓舞した。
その時、急にお堂の温度が下がり、肌が冷たく感じた。

「誰かいるのか?」健太は声を震わせながら呼びかけた。
その瞬間、奥から薄い声が響いてきた。
「助けて…」

二人は思わず怯え、お堂の隅に後ずさりした。
声はどこからともなく続いた。
「ここに、私を忘れないで…」

明は「行こう、もう帰ろう!」とつぶやいたが、健太はその場から動けなかった。
目の前で、ゆっくりと姿を現したのは、かつての僧侶の幻影だった。
白い衣をまとい、微笑みながら健太を見つめている。

「なぜ、私を忘れる…?」その声は響き、健太の胸に深い悲しみをもたらした。
彼は一瞬、信じられない思いに浸った。
僧侶の目は、真剣で悲しそうだった。

「この寺を、そして私を…忘れないでほしい。」その言葉は、まるで心の奥深くに突き刺さるようだ。

明は恐れおののきながら言った。
「戻るぞ、健太!」

だが、健太はその場を動くことができなかった。
僧侶の手が伸びてくる。
思わず手を伸ばすと、健太は信じられない感覚に包まれた。
温かさ、懐かしさ、悲しみが交錯していた。

「私を…受け入れてくれ。」その言葉を聞いた瞬間、健太は僧侶の幻影と心がつながり、時間が一瞬止まったかのように感じた。

そして、冷気が一瞬緩んだかと思うと、彼の心の中に嵐のような思いが広がった。
「ああ、私は、忘れない…」その言葉が彼の心の中で何度も繰り返された。

明の叫び声が耳に入る。
「健太!頼む、戻ってきてくれ!」

しかし、彼の意識は僧侶の存在に吸い寄せられ、現実が遠くなっていく。
しばらくして、明は健太の手を強く引くと、その場を離れた。
その瞬間、寺全体が揺れるような感覚に包まれ、健太は我に返る。

気がつけば、二人は寺の外に立っていた。
月明かりが彼らを照らしている。
健太は振り返り、お堂に目を向けた。
僧侶の姿はもう無かったが、心の中にはあの温かい言葉が消えずに残っていた。

「行こう、もう帰ろう。」明が不安そうに言った。

健太はうなずいた。
彼はこの出来事を忘れたくはなかった。
僧侶との絆を感じたことで、自分が何か大切なものを手に入れたのだと理解した。
しかし、その思いは同時に不安も伴っていた。
あの寺が今後どれほどの秘密を抱えているかを、彼は胸に秘め、ただ呆然とその場を去った。

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