「心の裂け目」

彼の名前は健太。
周囲からは温厚で真面目な青年として知られていたが、彼には誰にも言えない秘密があった。
それは、彼の脳裏に秘められた「鬼」の存在だ。
鬼というのは、物理的な姿ではなく、彼の心の奥深くに潜んでいる暗い感情の象徴だった。
彼は日常生活を送る中で、時折その鬼が顔を覗かせることに苦しんでいた。

健太はある日、友人たちとともに山登りに出かけることになった。
目的地は「落」という名の、昔から霊的存在が住むとされる神秘的な山だった。
誰もがその山に近づくことを避けていたが、彼はその存在に魅かれ、仲間を誘った。
実際には、彼の中に巣食う鬼がその場所を求めていることに気づいていなかった。

山道を進むにつれ、健太は次第に異様な空気を感じ始めた。
周囲は静まり返り、普段の生活では決して味わえない恐怖感が満ちていた。
他の仲間たちは笑い声を上げながら楽しんでいたが、彼の心の中には不穏なものが渦巻いていた。
そして、山の頂上に近づくにつれ、特に重たい空気が彼を包み込んでいった。

ついに彼らは休憩所に到着した。
そこは封印されたように静まり返っており、何もない空間が広がっていた。
仲間たちはそこにある古い木のベンチに腰を下ろし、軽食を始めた。
しかし、健太だけは異様に気がかりな部分があった。
静寂の中、彼の耳には微かに囁く声が聞こえてきたのだ。
それは、何かを求めるような、彼に何かを伝えたいような声だった。

「誰が私を呼んでいるのか…」

その声が心に響くと、彼の目の前にかすかな影が現れた。
それは、まるで鬼のような形をしていた。
顔は真っ白で、流れるような黒髪が彼の周りを取り囲んでいた。
影は彼に向かって何かを語りかけてくるが、その内容は理解できなかった。
恐怖心が湧き上がるにつれ、健太はその鬼の存在に強く惹かれていった。

「お前だけは、消えてしまえ…」

心の奥には鬼のささやきが響いた。
彼はその言葉が自分の内なる苦しみを表していることに気付いた。
果たして、彼はこの鬼を断ち切ることができるのだろうか。
友人たちの楽しげな声が遠のいていく中、彼は自らの心と向き合うことになった。

突然、彼の視界がぼやけ始め、目の前の景色が歪んでいく。
まるで彼自身が消えていくかのように感じられた。
仲間たちはまるで他人のように冷たく、彼の存在を全く無視しているかのようだった。
彼は引き裂かれるような感覚が全身を支配した。
そんな瞬間、影が彼に向かって飛びかかってきた。

「ああ、私を解放して…」

彼は必死に叫んだが、その声は誰にも届かない。
影は彼の心の中に入り込み、彼をさらっていった。
彼の目の前で友人たちの姿が消えた。
次の瞬間、彼は一人きりになったことを感じた。
細い道を引き返そうとしたが、目の前には黒い闇が広がるだけだった。

「もう、戻れないのか?」

心の中で唸るような声が響いた。
彼は深い絶望感の中で、自らの鬼と向き合わざるを得なかった。
そして、その瞬間、彼は気がついた。
鬼を消すことはできないが、彼と共存することはできるのだと。
彼は意識を集中させ、その鬼に自らの存在を認めさせることを決意した。

「私は、お前と一緒に歩む。」

その瞬間、暗い影が薄らぎ、健太は山道の先に光を見つけた。
彼は深呼吸し、ゆっくりとその光に向かって歩み出した。
鬼は彼の後ろに寄り添うように続いてきた。
それは解放ではなく、断絶でもない、ただの共存の始まりだった。
彼はもう一度仲間のもとに戻れることを愿い、歩み続けるのだった。

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