夜の帳が降りると、彼女の働く小さな診療所は静けさに包まれる。
看護師として働く美佐は、日々の業務に追われながら、薄暗い廊下を一人で歩くのが日常だった。
だが、最近、彼女の心に不安の影が忍び寄っていた。
診療所には伝説があった。
昔、ここで働いていた看護師が、ある夜、大火災に巻き込まれ命を落としたという。
その後、彼女の姿が廊下を彷徨うようになり、夜の診療所で「火」の現象が目撃されることもしばしばだった。
ふとした瞬間、静まり返った待合室の中で、彼女はその噂を思い出してしまう。
ある晩、美佐は夜勤に入った。
患者はまばらで、静けさが漂っていた。
彼女は業務をこなす傍ら、どうしても気になることがあった。
診療所の一番奥の部屋、かつて火災が起きた場所だ。
この部屋には、今は使われていない古いベッドがひとつだけ残されていた。
美佐はその部屋の前で足を止めた。
不安と好奇心が入り混じり、意を決してドアを開けた。
暗がりの中、埃をかぶったベッドが静かに佇んでいた。
異様な静寂の中、彼女は少しずつ中へと足を踏み入れた。
その瞬間、ふっと空気が変わった。
冷たい風が彼女の頬を撫でる。
「ここには何もないはず…」
小さな声が耳元でささやかれる。
彼女は驚いて振り返ったが、誰もいなかった。
やがて、美佐の視界の端に、微かに揺らめく光が見えた。
それは、燃えるような赤い光だった。
恐怖を感じながらも、彼女はその光を確かめるために近づいた。
近づくと、その光は目の前の空間に浮かび、ゆらゆらと燃え上がっているように見えた。
美佐はその光の中に、かつての看護師の姿が見えることに気がついた。
彼女の顔は憔悴しきっていたが、どこか穏やかな表情を浮かべていた。
目が合った瞬間、美佐の頭に「助けて」という声が響いた。
その声はかつての事件を忘れさせないように、彼女に訴えかけているようだった。
しかし、どうすれば彼女を助けられるのか分からなかった。
再び、火災の中で苦しんでいる姿が浮かび上がり、看護師が何かを訴えている姿があった。
美佐は思わず目を閉じて、彼女のことを考えた。
「なんとかできるはず…」
その瞬間、不意に身体が熱くなるのを感じた。
目を開くと、光は一層激しく燃え上がり、美佐を包み込んだ。
彼女はその光の中で、かつての看護師と再会することができた。
しかし、彼女は代わりにその火の中に引き寄せられそうで、逃げることができない。
「どうして…私がここにいるの?」
その問いに対する答えは、静かに響いてきた。
火の中で、かつての看護師は一言だけ言った。
「ここから逃げられない。私を忘れたら、あなたもこの場所に繋がれる…」
その言葉に美佐の心は重く沈んでいく。
彼女は何度も日常に戻ろうとしたが、目の前の光は強く、離れられなかった。
すべてを失う恐怖に怯えながら、美佐はその場から逃げ出そうとした。
しかし、どんなに足掻いても、彼女の体は動かなかった。
「忘れることはできない…」
その時、青白い光が彼女の脳裏に浮かび、まるで燃えているかのようだった。
目の前の景色は次第に歪み、彼女はその光に吸い込まれていった。
恐怖の中、美佐は自分の意識が薄れていく感覚を覚えながら、かつての看護師の姿を見つめ続けた。
彼女はいま、診療所にいるのか、それとも別の場所にいるのか、分からなくなってしまっていた。
その後、夜勤明けに彼女はいなくなってしまった。
診療所の壁に残された火の痕跡は、恐ろしい記憶として今もそこに存在している。
再び、誰かが火災のことを思い出すたび、新たな影がその場所に漂っているかもしれないという恐怖が忍び寄るのだった。