「影の呪い」

夜、東京のとある高層ビルの最上階にあるバー。
夜景を一望できるその場所には、外界の喧騒から逃れたような静けさが漂っていた。
常連客の中に、若い女性、佐藤結衣がいた。
彼女はいつも一人で飲んでいて、誰とも会話を交わすことはなかったが、その瞳の奥には何か秘めたるものがあるように見えた。

結衣には深い秘密があった。
数年前、彼女は大切な人を一瞬の酔いから失ってしまった。
その名は高橋健二。
彼は結衣の恋人で、とても優しい心を持っていた。
しかし、ある夜、酔った末に交通事故に遭ってしまった。
それ以来、結衣の心には、彼を失ったことに対する重い罪悪感が根付いていた。

そのバーで結衣は、酒によって心の痛みを和らげようとしていたが、どれだけ飲んでも傷は癒えなかった。
酔いが少し回ったとき、彼女がグラスを片手に眺めていた窓の外に、薄暗い影が映った。
何かが彼女を呼んでいるという直感が彼女を襲った。
彼女は立ち上がり、階段を降りていく。

最上階を越え、非常口のドアを開けると、彼女は薄暗い階段を下り始めた。
懐かしい靴音が響き、まるで誰かに導かれているかのようだった。
数階降りたところで、廊下の端にたたずむ影を見つける。
その影は明らかに人の形をしていた。
しかし、結衣はその顔を見ることができなかった。
何かが彼女を引き寄せる。

影はゆっくりと歩き出し、結衣もそれに続いて歩く。
彼女は影の背後についていくうちに、どこか見覚えのある場所へと誘われていた。
それは、健二と最後に過ごした公園だった。
彼女はその場所を忘れたかったのに、なぜか心の奥で引っかかるものがあった。

そこで結衣は、健二の姿を見た。
彼は微笑んでいて、優しい眼差しで彼女を見つめていた。
しかし、その微笑みの裏にはどこか影が宿っているように見えた。
彼女は今、彼を取り戻すことができるという幻想に囚われかけていたが、同時にその影が彼の姿を奪っているのを感じた。

「結衣、来てくれたんだね」と健二の声が耳に響いた。
しかし、何かがおかしかった。
彼の声は確かに彼のものであったが、影の部分は消えかけているように見えた。
「ごめん、私が……」

結衣は自分の口をついて出た言葉に戸惑った。
彼に対する思いが善意に映り込む一方で、自らの罪が重い呪いとなって彼を苦しめていることに気が付いた。
彼の表情は次第に曇り、結衣の心を読んでいるかのようだった。
彼女は、自分の失った時間を取り戻そうと動き出すが、その動きが影を濃くするだけだった。

「どうして、私を忘れられないの?」結衣の問いに、彼は冷たい声で続けた。
「忘れられないのはお前だ。私の影を奪ったというのに、どうして償おうとしない?」

その瞬間、彼女の記憶の中で、健二の温もりが消え始めた。
彼の体温が冷たくなり、彼の存在がどんどん薄れていく。
それと同時に、彼女の内面に秘めていた罪悪感が、足元からズシリとした重量感となってのしかかってきた。

「私を助けて……結衣」と彼の声が消え入りそうになる中、彼女は必死で彼を呼び寄せようとした。
しかし、もはや彼の姿は完全に消え、ただ影だけが彼女の目の前に立っていた。
彼女は自分の中にある影が確かに健二を呪っていることを理解した。

結衣は結局、何も言えず、その場に立ち尽くす。
彼女は自らの選択が健二を取り戻すための道ではなかったことを悟った。
彼女自身がその呪いの一部であり、彼を消し去ったのは自分だったのだ。

その夜、結衣は一人でバーに戻り、その場に座った。
光が煌めく街並みを見つめたまま、彼女の心は静かに、しかし強く何かを決意していた。
彼女は二度と過去に囚われない決意をしたが、あの影はいつまでも彼女の後ろに残り続け、その存在感を示していた。

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