彼女の名前は美咲。
27歳の会社員で、毎日同じ時間に満員電車に揺られて通勤していた。
ある日、彼女がいつものように駅に向かうと、いつもとは違う雰囲気の停留所を見つけた。
うっすらとした霧に包まれ、何か得体の知れないものが壁に描かれている。
美咲はその光景に引き寄せられるように近づいた。
その停留所には、見たこともないような奇妙なポスターが貼られていた。
「新しい世界が待っている」と書かれた文字が、彼女の目を釘付けにした。
思わず立ち止まり、そのポスターをじっと見つめる。
どうやらこの場所では、誰も利用することがないようだ。
静寂と不気味さに包まれ、心の奥底で何かがざわめいた。
美咲は周囲を見回すが、誰もいない。
誰かに相談しようと思ったが、携帯電話も通じない。
まるでこの停留所自体が、この世から隔離されたかのようだった。
不安が心をよぎり、早く帰りたくなったが、なぜかその場から離れられなかった。
その時、彼女の視界の隅に薄い影が映り込む。
目を凝らして見ると、一人の女性が立っていた。
髪が長く、どこか寂しげな表情を浮かべている。
美咲は思わず声をかける。
「あなたもこの停留所に来たの?」
女性は微かに微笑んで答えた。
「はい、ここは特別な場所。あなたの心の中にあるものを映し出す停留所なの。」
「心を映し出す?」美咲には何のことかわからなかった。
「そう、ここにはこの世界を偽っているものが現れるの。あなたが求めるもの、それが偽りの世界で連れてこられる。」その言葉に、美咲はますます混乱した。
女性は続けた。
「あなたが本当に欲しいものは、何ですか?それを手に入れるためには、偽りを捨てる必要があります。」
美咲はその瞬間、自分の心の奥に隠していた願望が浮かび上がってきた。
それは、安定した仕事、愛する人との幸せな生活、全てを失わない強さだった。
ただの夢物語だと諦めていたものだった。
「今、この場所で自分を見つめ直してみて。」女性はそう言って指差した先には、またポスターがあった。
そのポスターには、彼女の人生に対する満ち足りた理想が描かれていた。
そして、その背景には彼女がこれまで生きてきた嘘や偽りが忍び込んでいた。
その事実に気付いた瞬間、美咲は心に強い違和感を覚えた。
もっとも自分が大切に思っているものが裏切られ、捨てられ、見えないところで崩れていく。
恐怖が心を締め付け、彼女はまた振り返った。
しかし、その女性はいつの間にか消えていた。
そしてその瞬間、美咲は周囲の景色が変わるのを感じた。
霧の中から無数の影が立ち昇り、彼女を取り囲んでいく。
それらは彼女の偽りの世界の住人たちだった。
見せかけの幸せを求めるあまり、彼女はその影に引き込まれてしまう。
「助けて…」美咲の声は届かず、彼女はふいに心の底から湧き上がる恐怖を抱えたまま立ち尽くすしかなかった。
美咲はそのまま停留所から動けず、心の内側で何かが崩れていく音が響いていた。
いつしか、彼女の姿は影の一つと化し、他の通行人たちの前を通り過ぎる存在となった。
彼女は、不安定な心の中で偽りの自分を育て続けることになり、停留所の呪縛に囚われたまま、永遠に脱出する術を見つけられなかった。