学は大学の研究室にこもり、日々論文を書く生活を送っていた。
彼は自分の研究テーマに没頭するあまり、周囲との交流をほとんど絶っていた。
周囲からは「孤独な天才」と評されることもあったが、学はその状況に特に不満を感じてはいなかった。
ただ、自分の研究結果が世に出ることのみを考えていた。
ある晩、学は研究室で一人、データを整理していた。
彼のテーマは「人間の記憶とそれを数値化すること」だった。
そんな彼の手元にあったのは、計算機と、数日間にわたって集めた膨大な数のデータだった。
深夜12時を過ぎても、まだまだ研究は尽きることがなかった。
プログラムを書き上げ、実行すると、計算機から得られた結果が表示された。
「これだ…これが鍵になる。」彼は微笑んだ。
しかし、その瞬間、彼の背後に冷たい風が吹き抜けた。
驚いて振り向くと、誰もいないはずの研究室に、かすかに揺れる影があった。
その影はまるで人間の形をしているようでもあり、どこか不気味であった。
学は不安になりながらも、無視することにした。
影は一瞬揺れて消えたのだ。
次の日、彼は友人の佐藤に、その話をしてみた。
「最近、研究室でおかしなことがあって…影を見たんだ。」佐藤は興味津々で耳を傾けた。
「もしかして、焦りすぎてるんじゃない?ストレスも溜まるだろうし。」彼は笑顔で言ったが、学はその言葉に一瞬、苦笑いを返すしかなかった。
自分の研究がうまくいかない日々に押しつぶされ、同時にそんな自分を慰めてくれる友人の気持ちが、ほんの少しだけ気にかかる。
時は流れ、学のデータが集まっていく一方で、彼に見える影の頻度は増していった。
夜になると、影が現れ、その影は徐々に彼に近づいてきた。
学はその度に身を強張らせ、背筋を伸ばして影を見つめる。
しかし、影はどこか束縛されるように思えて、学をじっと見つめ返しているだけだった。
そして、ある晩、学はついにその影に声をかけることにした。
「お前は何を望んでいるんだ?」
その瞬間、影は明確な形を取り始めた。
それは、彼の姿を模したような幼い少年のように見えた。
学は驚きと恐れの混じった感情に襲われた。
「君は…誰だ?」
少年の影は口を開いた。
「あなたが研究しているのは、私の記憶、そして私の思い出。私を束縛しているのは、あなたの研究が進むことで、私の存在が薄れてしまうから。私を解放してほしい。」
その言葉を聞いた学は、何が起こっているのか理解できなかった。
少年は、彼が数値化しようとしていた記憶の中にいる存在なのか?彼はその瞬間、何かを悟った。
計算やデータで人間の思いを測ることはできない。
この少年は、彼が追い求めていた全ての真実だった。
「解放するって…どうすればいいんだ?」学は声を震わせた。
「私の願いを受け入れて、思い出を形にしてほしい。そうすれば、私の束縛から自由になれる…そして、あなたも。」少年の影は静かに笑った。
彼は、自分の研究が人間の記憶を束縛し、消えてしまうことが実は恐ろしい事実であることを認識した。
彼は全てを捨て、この少年の思い出を真摯に受け止めることにした。
深夜、影は消え、学は新たな決意を胸に込めながら、未完成の研究室で透明な壁に向かい、思い出の絵を描き始めた。
その結果、彼の仕事は新たな方向に進み、記憶を解放することによって、人々の心に残る影を描くことだった。
影は消えたが、彼の記憶には深く刻まれ、そして彼自身もまた、新たな束縛から解放されていったのだった。