ある春の夜、大学生の中村健太は友人たちとともに、廃墟となった老舗の旅館に肝試しに訪れていた。
その旅館は、かつて多くの客を迎え入れたが、ある火事をきっかけに閉館してしまったという噂があった。
しかし、彼らは興味本位でその場所に足を運ぶことを決めた。
月明かりが薄く照らす中、旅館の入り口にたどり着くと、健太は仲間たちと共に中に入った。
古びた板張りの床は、異様な静けさを放っていた。
壁にかけられた不気味な絵画や、埃をかぶった家具の数々が彼らを迎え、「まだ誰かがここにいるのではないか」という感覚を与えた。
仲間たちは「お化けが出るに違いない!」と騒ぎ立てながら、テーブルを囲んで怪談を語り始めた。
その中で話題に上がったのが、旅館のオーナーであった元という人物の話だった。
元は旅館を切り盛りしていたが、火事の日、突如として行方をくらましたと言われていた。
「元がこの旅館に未練を持っているんじゃないか?」健太がそう言うと、仲間の一人である麻衣が冷やかすように「やだ、そんなこと言わないでよ」と言った。
しかし、興味は尽きない。
健太は元の真相を探りたいと思い立ち、他の仲間たちに声をかけて、旅館の中を歩き回ることにした。
だが、彼らが奥の部屋に入ったとき、雰囲気は一変した。
空気が凍りつくように感じ、誰もがその場の異様さに気づいた。
壁の隅にあった鏡に目を向けると、健太は背筋が寒くなるのを感じた。
鏡の中、彼の後ろに誰かが立っていた。
振り返ると、誰もいない。
再び鏡を見つめると、その影は明確に映っていた。
「何かいる」と心の底から恐怖を感じた彼は、仲間たちに後ろを見ないように告げた。
しかし、仲間たちは興味をそそられ、次々に鏡を覗き込んだ。
すると、麻衣が絶叫した。
「これ、元だ!」彼女の指差す先には、確かに元の姿をした影が映っていた。
彼の無表情で虚ろな目が、まるで彼らを見つめ返しているようだった。
その瞬間、室内の温度が急激に下がり、冷たい風が吹き抜け、仲間たちは恐怖に駆られて逃げ出した。
健太も咄嗟に仲間の後を追ったが、影は彼の後ろにぴったりとくっついて来る。
彼は全力で逃げたが、何も見えない暗闇の中に立ち尽くしてしまった。
どうにかして出口を探すと、健太は気づいた。
仲間たちの声がもう聞こえない。
孤独に包まれた彼は、心の中に恐れを抱えながらも必死に壁を辿り、出口を探し続けた。
しかし、何かに引き寄せられる感覚があった。
「元はここにいる」とその時彼は悟った。
彼の未練が、自分に近づいているのだと。
再び廊下に出ると、冷たい冷気が彼を取り囲んだ。
彼は後ろを振り返るべきではないと自分に言い聞かせたが、どうしてもその誘惑に抗えなかった。
勇気を振り絞って振り返ると、そこにはやはり影があった。
その目は、思い出の中の彼と重なるようだった。
元の存在感は、一瞬健太を魅了したかのように思えた。
しかし、徐々にその恐ろしさを理解していく。
「何か言いたいことがあるのか?」彼は影に向かって叫んだ。
すると、影は微かに笑ったように見えた。
「助けてほしい」と、その瞬間、彼の心に確信が訪れた。
彼は全力で逃げようと決心した。
心の底から今の自分を取り戻すため、元の存在を振り払いながら出口を目指して走った。
苦しみの中でも、彼は光を求めた。
「俺は帰るんだ、ここから出られるんだ!」
ついに出口を見つけたとき、健太は振り向かなかった。
暗い廊下を走り抜け、外へと飛び出した。
外に出た瞬間、冷気は消え、心に閃いたのは「もう一度、戻らない」と心に誓った。
仲間たちと合流した健太は、その夜の出来事を語り始めた。
元という存在は未だにこの旅館に残っている。
しかし、彼の正体は、未練から解放されることを望んでいるかのようでもあった。
彼の影に囚われず、恐怖と共に生きることが一番大切だと、健太は思い知ったのだった。