ある冷たい春の夜、東京の郊外にある静まり返った住宅街に住む田中優子は、いつも通り仕事から帰宅すると、部屋の明かりを点け、その日の疲れを癒すべくお茶を淹れた。
ソファに座り、隣に置いた小さなテーブルの上には、古ぼけた本が一冊。
彼女はその本を開き、知らぬ間に夢中になっていった。
ページをめくるごとに、彼女は恐ろしい話や奇妙な伝説に引き込まれ、その夜はあっという間に過ぎ去った。
突然、背後で不気味な音が響いた。
「カタン」と音がする。
振り返ると、何もないはずの廊下に冷たい風が吹き、淡い影がちらちらと動いているように見えた。
優子は思わず身震いした。
影の正体について考える余裕もなく、彼女は震える手でスマートフォンを握りしめた。
照明を点けて周囲を見渡すが、何も見当たらない。
その晩は、影の正体と向き合うことなく、優子は無理やり目を閉じ、眠りについた。
だが、深い眠りに入ることはできなかった。
夢の中で彼女は、薄暗い屋敷の中に迷い込んでいた。
長い廊下の壁は古びた家族の写真で埋め尽くされていたが、その顔はどれも無表情で奇妙に歪んでいる。
強い不安を感じながらも、優子は足を進めた。
歩を進めるごとに、背後から誰かがついてくるような気配がした。
だが振り向いても誰もいない。
優子の心拍数は高まり、冷や汗が滲んだ。
恐る恐る廊下を進んでいくと、突然、またあの「カタン」という音が響く。
今度はもっと近くで、まるで彼女のすぐ背後で発生したかのような音だった。
走り出そうとしたその瞬間、目の前に現れたのは、彼女のよく知る存在だった。
過去に失った親友の佐藤明だった。
しかし、その姿は変わり果てていた。
明の顔は青白く、目は虚ろで、口元には何かを訴えるような影が寄り添っている。
優子は叫び声をあげたが、声は出なかった。
恐怖によって言葉を失ってしまったのだ。
「優子、助けて…」その声は優子の耳に届いた。
明の手が優子に向けて伸ばされ、彼女はその手を取ろうとした。
しかし、その瞬間、影が彼女を引き寄せ、抵抗することさえできなかった。
影はどんどん彼女を暗闇に沈めていく。
優子は必死で抵抗し、逃げようとしたが、それができない。
影の中に取り込まれ、彼女はやがて意識を失った。
次に目を覚ましたとき、彼女は自分の部屋のソファーの上にいた。
外は明るくなり、朝日の光が差し込んでいた。
しかし、あの恐ろしい夢の記憶が鮮明に残っていた。
心臓がドキドキしている。
目の前には昨晩読んでいた本が置かれていたが、その表紙には見知らぬ文字が浮かび上がっていた。
その後、優子は日常へ戻ろうとしたが、影の予兆は彼女の周りにいつも存在していた。
友達や家族と過ごしても、どこか心の片隅に恐れが潜んでいるのを感じた。
時折、彼女の横を影が通り過ぎているかのような錯覚にも襲われ、それは彼女の心に重くのしかかった。
やがて、優子はあの夢の中の出来事について周囲に話すことを決意した。
もしかしたら、誰かが助けてくれるかもしれない、と思って。
彼女は友人や家族に相談しても、それは単なる夢の話と軽く受け流された。
誰も彼女の不安を理解してくれない中、優子は孤独に苛まれ続けた。
数週間が経ち、夢の中での出来事を忘れかけたある晩、再び夢を見た。
今度は、あの薄暗い屋敷ではなく、優子の目の前に明が現れた。
しかし、彼の目はもう虚ろではなく、その圧倒的な悲しみが心に染みてくる。
優子は彼に再び会えた喜びを感じていたが、その瞬間に彼の顔が影に飲み込まれて消えていった。
「助けてくれ、優子…」その言葉が耳元で響き渡る。
優子は自分の無力さを思い知り、泣き崩れた。
その影は彼女が忘れてはいけない何かを教えようとしていたのだ。
彼女は強い意志を持ち、再びその影と向き合うことを決心した。
そしてその影の中に隠された真実を掘り起こし、自分自身を取り戻す勇気を持つことを誓った。
