深夜の駅、その駅は静まり返り、月明かりが薄く照らす中、鶴見は一人、ホームのベンチに座っていた。
彼は終電を逃してしまい、仕方なく待合室で夜を明かすことにした。
周囲には誰一人おらず、時計の音だけが甲高く響いている。
しばらくすると、彼は目の前のホームに視線を移した。
そこに、短い髪の女性が立っている。
彼女は、暗がりの中にいるとは思えないほど、はっきりとした姿をこちらに向けていた。
鶴見は彼女の存在に驚き、思わず立ち上がる。
「すみません、何かお探しですか?」鶴見が声をかけると、女性はゆっくりと振り向いた。
しかし、彼女の目はぼんやりとしていて、まるでどこか別の世界にいるようだった。
鶴見はその異様な光景に興味を持ち、彼女に近づいてみることにした。
その瞬間、女性の表情が変わった。
彼女は一瞬、微笑みを浮かべたかと思うと、すぐに険しい顔つきになり、何も言わずにホームを歩き始めた。
鶴見は足がすくんだが、彼女に引き寄せられるように後を追った。
「待ってください!」鶴見は声を振り絞った。
しかし、彼女はまるで彼の声を聞いていないかのように、どんどんと駅の奥へと進んでいく。
ホームの先端で立ち止まり、鶴見を振り返ると、再び微笑んだ。
けれども、その笑顔はどこか不気味だった。
「あなたは行かない方がいい…」その瞬間、鶴見は異様な寒気に包まれた。
彼女の声は柔らかく、甘いはずなのに、響く声の奥には怖れが潜んでいるように感じた。
なぜ彼女がそう言うのか、全く理解できなかった。
彼女が再び振り向いた瞬間、鶴見の目に飛び込んできたのは、彼女の後ろに立ち尽くす影だった。
影は、徐々に彼女に近づいていく。
もはや、どうすることもできず彼は恐怖に囚われた。
影は人の形をしているが、顔は無く、ただの暗闇のようだった。
「行けない…行かないで…」女性が悲しげに囁いたその瞬間、影が一気に彼女に向かって伸びていった。
鶴見は目を逸らすこともできず、ただその光景を見つめることしかできなかった。
影が女性の腕を掴むと、彼女の顔が恐怖に歪み、目の前からその姿が消えた。
まるで、夜の闇に吸い込まれるように。
鶴見は我に返り、急いでその場を離れようとした。
しかし、彼の体は動かなかった。
まるで重力に引き寄せられているかのように。
不意に、駅の構内に警告音が鳴り響いた。
「行かないで」その声は再び響き、鶴見の心がざわめいた。
冷静さを失いかける彼は、振り返りたくても振り返れず、ただ前に向き合うしかなかった。
彼の肩に冷たい風が吹き抜け、背筋が凍る。
目を閉じて逃げたい気持ちを押さえつつ、彼は家にいる家族の顔を思い描いた。
「早く帰らなくては」と心の中で叫んだ。
その瞬間、意識がハッと戻り、彼は必死に足を動かした。
一瞬、駅のトンネルに差し掛かると、背後で女性の声を再び聞いた。
「行かないで…」それは耳にこびりつくような響きを持ち、彼が去ることを望んでいないかのようだった。
しかし、鶴見はそれに抗い、無我夢中で暗闇の中を走り出した。
やがて、出口に辿り着いた彼は、後ろを振り返ることはできなかった。
ただ、本能的に「帰らなければ」と強く思い、駅を後にした。
数日後、彼は友人たちとその駅の噂を聞いた。
そこでは、長い間行方不明になった女性の話が流れていた。
決して忘れられないその声は、今でも夜の駅に漂っていると言う。
人々は彼女の姿を見ることなく、その声を聞くことがあるのだという。
鶴見は、あの夜の出来事を振り返り、思った。
「あの女性は、本当に助けを求めていたのかもしれない」と。
彼は一生、その駅には近づかないと心に誓った。