「廊下の影」

その宿は、山間の小道を外れた場所にひっそりと佇んでいた。
宿の名前は「くろがね荘」。
周囲には何もなく、訪れる者は少なかった。
物静かな廊下が宿を繋ぎ、廊を挟んで客間が並んでいる。
魅零は、ひょんなことからこの宿を訪れることになった。

彼女の名前は田中彩音。
今まさに友人との旅行から帰る途中、ついつい気になる報告を受けたのだ。
「くろがね荘には、夜中に廊下を歩く音が聞こえるって」。
興味を惹かれた彼女は、宿の魅力に抗えず、泊まることに決めた。

宿の内装は古びていて、時代を感じるものだったが、どこか心地よさを感じる。
受付で宿の主人、佐藤はにこやかに迎えてくれる。
彼の言葉には落ち着きがあり、不安を感じることはなかった。
「今夜、廊下の音が聞こえるかもしれませんが、あまり気にしないでください」と彼は語る。
果たしてどんな音が聞こえるのだろうか。
期待と少しの怖さを抱えた彩音は、夕飯を終え多くの人々と共に食卓を囲んでいた。

夜が深まるにつれ、宿の静けさが増す。
ふと、彩音は自分の部屋に戻り、ベッドに横たわった。
しかし、不思議なことに、廊下から気配を感じた。
かすかな足音。
ドア越しに聞こえてくるその音は、まるで誰かが人知れず歩いているかのようだった。

音は廊下の隅々に響いている。
しかし、誰か他の宿泊者がいるのか確認するため、彩音はドアを開けてみた。
廊下は静まり返り、誰もいない。
心臓が高鳴る。
近くの部屋には明かりが漏れ、宿泊客は寝ているのだろうか。
それとも、あの廊下の音の正体は…?

もう一度、音がした。
今度は明らかに近づいてくる。
思わず、彩音は一歩引き下がった。
何がいるのだろうか。
いや、考えてはいけない。
考えれば考えるほど不安が募る。
しかし、無性にその正体を見てみたいと思った。

意を決し、廊下に出ると、果たして音のした方へ近づいていく。
廊下の先にある窓際の明かりが頼りだった。
ふと視線を感じ、振り返れば、何者かが立っているのを目にした。
それは、白い着物を着た女性の姿だった。

彼女は微笑むこともせず、ただ黙って立っている。
彩音はその場から動けなくなった。
長い髪に隠された顔には、無表情な目が宿っている。
「あの、あなたは…?」声が震え、質問が口をついて出かけた。
しかし、女性は返事をせず、ただこちらを見つめていた。

その女性は、他の宿泊者からも見えぬ存在であるらしい。
廊下の影にいる彼女はまるで限りない空間に消えてしまったかのように感じられた。
後で彼女の姿を思い出すと、まるでかつてこの宿に滞在していた誰かのように感じる。

ふと気づくと、長い廊下はどこまでも続いてゆくように思え、次から次へと光の明かりが消えた。
彩音は自分が迷子になってしまったのか、ただ廊下を歩き続ける羽目になっているのか、現実か夢か判別できなかった。
本当に不気味な場所…。

やがて、廊下の先に見えたのは、一つの扉だった。
そこには小さなキャンドルが揺らめいていて、まるで誰かが待っているように見えた。
恐怖と好奇心が入り混じりながら、彩音はその扉を開けることにしたが、何も見つからず、ただ空虚な部屋が広がっているだけだった。

翌朝……彩音が目を覚ますと、佐藤は心配していた。
「あなたは昨夜、廊下を歩いていましたか?宿泊客が一人、迷子になったのです」と告げられる。
彼女の心は沈んでいった。
以後、くろがね荘には、もう一緒に歩く廊下の影がなく、ただ静寂に慣れることになってしまった。

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