「床の彼方に潜むもの」

深夜、静まり返った室内で、たった一人の男がソファに座り、テレビの音を小さく流しながら、何かを考え込んでいた。
彼の名前は健太。
仕事のストレスから、幽霊や怪談に興味を持つようになり、たまたまネットで見つけた心霊映像を見ていた。
その中の一つが、強烈に彼の心に残っていた。
それは、床に現れる「怪」という存在についての映像だった。

「え?」と、映像の中の女性が床に目をやると、そこには黒い影がうずくまっていた。
男はその映像を見つめながら、自分の部屋の床の質感を意識し始めた。
フローリングの木目や、その隙間から見えるコンクリートの色が、不気味に感じられた。

「の」という言葉が、彼の頭の中で繰り返された。
その時、扉の隙間から、かすかな風が吹き込んだのか、床が微かに揺れるのを感じた。
彼は一瞬、背筋が凍る思いをした。
目を細め、床に向けて耳を澄ませると、何か微弱な音が聞こえた。
「れ…れ…れ…」という低く、かすれた声が響いていた。

それが何なのか、いくら考えてもわからない。
健太は思わず立ち上がり、音の正体を確かめることにした。
廊下を歩く足音に反響する、彼の心臓の鼓動。
ドアを開けると、薄暗い部屋の中には、ただ静けさだけが広がっていた。
部屋の片隅には、以前使っていた古い家具が埃まみれに放置されており、もはや存在感を失っていた。

「やはり、何もないか…」と、彼は自分を落ち着かせようと呟いた。
しかし、動くことができずにいても、どこか不安感が抜けなかった。
再び床に目を向けると、その瞬間、異変が起きた。
床板が急に「ぐにゃり」と沈み込んだ。
驚いた健太は、後ずさりする。
しかし、足が床から離れず、まるで引き寄せられるように動けない。

「れ…」という声が、今度は明確に耳元で聞こえた。
振り返ると、背後に何かがいる気配を感じた。
恐る恐るその存在を確かめようとしたが、恐怖が彼を支配していた。
彼は気が付いた。
映像の中と同じように、床の中から何かが這い出てくるのだ。

床の隙間から、黒い手が現れ、彼の足を掴んだ。
その冷たさに、健太は心の底から恐怖を覚えた。
「助けて!」と叫ぶが、声は出ず、生きた心地がしなかった。
目の前にあったはずのドアは、まるでどこか遠くにあるかのように感じられた。

振り返った瞬間、部屋の空気が変わり、全てが真っ暗になった。
彼は床に沈んでいく感覚を味わった。
意識が朦朧としてきたとき、床の奥から「れ」という声がまた響いてくる。
今度はその声が不気味な笑い声に変わり、身の毛もよだつ。
信じられない光景が広がり、彼の周りはかつてない恐怖に包まれた。

「え、なに?この声は…」彼は自らの恐怖を忘れようと必死だった。
しかし、その声はまるで彼の心を掴み、引き無くことができない恐怖として、彼の日常を侵食していた。

次の瞬間、健太は床の奥に吸い込まれるようにして、暗闇の中へと消えていった。
あの映像の中の女性が見た通り、彼はもう戻ることができなくなった。
悪夢は現実のものとなり、彼の存在はその部屋の床の下で消え去ってしまったのだ。

翌日、誰もいないその部屋には一つだけ変わったことがあった。
床の隙間から漏れ出す、微かに「れ」という声が、人々の耳に届くことはなかった。
健太の行方は誰にも知られず、ただ黒い影が静かに床に潜むだけだった。

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