「帰れぬ道の先に」

ある秋の夜、仕事を終えた佐藤は帰路につく途中、普段通らない路地に迷い込んでしまった。
薄暗い道に、街灯の明かりがわずかに漏れているだけで、周囲は深い闇に包まれていた。
彼の心にはどこか不安がよぎったが、急ぐ必要もなく、街の喧騒から少し離れた静けさを楽しむことにした。

道を進むうち、彼は一軒の古びた家が目に入った。
外観は無残に朽ち、まるで時間に忘れ去られたかのようだった。
好奇心から近づいてみると、開かれた窓からかすかな声が漏れ聞こえる。
「帰ってきて、帰ってきて…」その声は、どこか懐かしくもあり、胸の奥に潜む恐怖心を引き起こした。

佐藤はそのまま家に入ることに決めた。
ドアは意外にもすんなり開き、彼は薄暗い室内へ足を踏み入れた。
中は急激に温度が下がり、背筋が凍るような感覚に包まれた。
静寂を破るのは、あのかすかな声だけだった。
彼はその声が導くままに、奥の部屋へと進んだ。

部屋に入ると、朽ちた家具が散乱し、壁は黒ずんだシミで覆われていた。
しかし、一番気になったのは中央に置かれた古びた鏡だった。
その鏡は不気味な光を放ち、佐藤は思わずその前に立ち尽くした。
鏡の中には、彼の姿だけでなく、何かが映り込んでいるのを感じた。
背後にいるかのような存在だった。

「帰ってきて、帰ってきて…」その声は更に強く、彼の耳元で響き、胸の鼓動が速まる。
だが、目の前の鏡からは、かつてこの家に住んでいた女性の姿が浮かび上がった。
彼女は一度消え、また現れ、繰り返し佐藤を見つめていた。
彼女の目には深い悲しみが宿っているように見えた。

「私を求めているの?」佐藤は無意識に問いかけた。
返事はなかったが、彼女は再び「帰ってきて」と囁いた。
佐藤の周囲の空気が変わり、暗闇から冷たい風が吹き込んできた。
彼は後退り、何かが彼を引き寄せる感覚に襲われた。
まるでその家の中で彼が何かを求められているかのようだった。

彼は恐れを感じながらも、鏡の前から目を逸らせなかった。
その時、彼の心の中にある記憶が呼び起こされた。
かつて自分が大切にしていた人の姿が、彼の心の奥で揺らいでいた。
もしかすると、彼がここにきた理由はその人を思い出すためなのではないかと…。

その時、部屋の空気が一変した。
彼の背後で扉がバタンと閉まり、暗闇が彼を包み込む。
「帰ってきて、帰ってきて…」その声は耳元で強く、何度も繰り返された。
恐怖が佐藤の心を支配し、彼は逃げることを考えたが、足が動かなかった。
鏡の女性は、彼に手を差し伸べていた。
彼女の存在が何を求めているのか、彼には理解できなかった。

「私の愛を忘れないで…」彼女の声は次第に弱まり、暗闇の中に消え入るようだった。
佐藤の心に浮かんだのは、かつて自分が愛した人との別れだった。
彼はその時の自分の選択を悔やみ、彼女の存在を知っていながらそのまま去ってしまったことを痛感した。

「ごめんなさい、私は…」彼の言葉は、闇の中に吸い込まれていった。
だが、もう振り返ることはできなかった。
彼はそのまま家を飛び出し、薄暗い道を走り抜けた。
背後から再び「帰ってきて!」と叫ぶ声が響くが、それを振り払うように彼は必死に逃げた。

数日後、佐藤はその時の出来事を胸に抱えながら、ふとした瞬間にその家のことを思い出した。
彼が大切にしていた人に、伝えなければならないことがあった。
彼は心の中で決意した。
もう一度、その古びた家を訪れようと。
そこで彼女の声に耳を傾け、彼女の思いを理解し、そして伝えるために。
闇に包まれたあの場所で。

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