静かな夜、月明かりに照らされた新興住宅街のス通り。
その通りの奥にある古びたマンションは、誰も住んでいないかのように静まり返っていた。
周囲の家々とは対照的に、不気味な雰囲気が漂うこの場所を知る者は少ない。
しかし、一人の少女、裕子は友人たちの噂を耳にしていた。
「ス通りには、昔、住んでいた人の霊が今も帰ってくるって。夜中に姿を現すらしいよ。」
その晩、裕子は友人たちと一緒に、その噂を確かめるためにマンションの前に集まった。
彼女たちは興味本位で、マンションの廊下を探索することにした。
当初は軽い気持ちで話し合っていたが、次第に恐怖が心の中に忍び込んできた。
「えっ、あれ見て! あのドア、勝手に開いたよ。」友人の智美が指差すと、裕子もその瞬間が信じられなかった。
たしかに、古いマンションの一室のドアが、何の音もなく少しだけ開いている。
裕子は背筋が冷たくなるのを感じたが、好奇心が勝ち、みんなでそのドアの前に立つことにした。
ドアを押し開けると、中は暗い空間が広がっていた。
そこには古い家具や雑誌が散乱しており、まるで時が止まったかのような静けさだった。
恐る恐る中に足を踏み入れると、事態は急変した。
突然、部屋の中から突如として現れた影が、裕子たちの目の前を横切ったからだ。
低い声で囁くような音と共に、何かが彼女たちの周りを取り囲んでいる気配を感じた。
「こ、こんなの、帰ろうよ!」智美が恐怖で声を震わせながら言ったが、裕子は動けなかった。
なぜか強い引力に惹かれ、そこに留まってしまった。
すると、影が一瞬目の前に現れ、裕子の耳元で何かを囁いてきた。
その瞬間、心臓が止まるかと思ったが、影はただ静かに立っていた。
裕子は自分自身に問いかけた。
この影は何を伝えようとしているのか──。
「生きていた頃の私の想いを、解き放ちたい…。」
裕子はその声を通じて、深い切実な感情を受け取った。
その影は、帰ることのできない思いを抱えたまま、永遠にこの部屋に留まっているのだと気がついた。
裕子は思わず声を上げた。
「帰りたいの? あなたをここから解放してあげたい…。」
影は裕子の言葉に反応し、次第に姿を変えていった。
ある瞬間、影がかすかに形を成し、裕子の目の前に一人の女性が現れた。
彼女は美しい顔立ちをしており、裕子を不思議な目で見つめている。
その女性の表情は哀しみと感謝で満たされていた。
裕子は、女性の手に触れることができた。
すると、その瞬間、部屋の空気がふっと軽くなり、女性はほほ笑んだ。
「ありがとう、やっと帰れる…。」
裕子は涙を流しながら、彼女の姿が消え去るのを見届けた。
影が消えると、部屋の中は静まり返ったままだった。
裕子と智美は互いに目を合わせ、ようやく恐怖が解き放たれたことを感じ取った。
その日以降、裕子はス通りのマンションに何度も帰った。
もう一度その声を聞くために、ただただ呼びかけ続けた。
影はもう現れないが、彼女の心には徒然な思いが残り続けた。
時折風に運ばれるような声が、心の中で囁き続けるのだった。
それは彼女自身もこの世に戻ってくるためのメッセージでもあるのだと感じながら。