「帰れぬ影」

深い夜の静けさが校舎を包む中、芳一という名の老教師は、学校の自習室に一人残っていた。
彼は、生徒たちが帰った後も職務に忠実であり、課題の採点や明日の授業の準備に取り組んでいた。
しかし、その日はいつもとは違う、不気味な気配が漂っていた。

その瞬間、芳一は教室の隅にある大きな窓の方に目を向けた。
不気味な音が聞こえたわけではないが、何かが彼を呼んでいる気がした。
ふと窓の外を振り返ると、月明かりの下に一人の学生が立っているのが見えた。
ただ、彼の姿がおぼろげで、まるで霧の中にいるようだった。

「帰りなさい、もう遅いよ」と芳一は小声でつぶやいた。
しかし、その学生は動こうとせず、まるで呪縛にかかったかのようにその場に立ち尽くしていた。
芳一は彼を知っているわけではなかったが、何か特別な雰囲気をまとっているように感じた。

彼の目がその学生に吸い寄せられる中、芳一は心の奥で何かが揺らいでいるのを感じた。
すると、急に雲が月を隠し、周囲が暗闇に包まれた。
芳一は3人の生徒が罹った事故のニュースを思い出した。
数ヶ月前、校舎の近くでの不幸な出来事のせいで、2人は命を落とし、1人は後遺症に悩まされているという。

そして、その学生が見せている表情。
まるで何かを求めているようだ。
芳一は彼が生徒の一人なのではないかと考え始める。
しかし、心のどこかで「生徒たちはもう帰っている」と告げる声が響いていた。
気のせいだろうか、それとも自分の想いが強くなりすぎたのだろうか。

突然、芳一の背筋を冷たいものが走る。
教室の窓が開き、冷たい風がひゅうと吹きこんできた。
何かの兆しを感じた芳一は、懸命にその学生の方に目を凝らした。
すると、薄暗い光の中で、その学生の姿が徐々に鮮明になっていった。
彼の目は遍く虚無を秘めており、芳一の心に奇妙な不安を抱かせる。
何かが彼に語りかけているようだったが、その言葉が何であるのかはわからない。

芳一は背を向け、すぐに教室を出ることを決意した。
しかし、何かが足を引き止めている。
背後からその学生が呼ぶ声が聞こえた気がした。
振り向くと、彼は驚くほど近くに立っていて、声にならない叫びを上げているようだった。
芳一は恐れを抱えながら、再び目を合わせた。
その瞬間、彼は自分が見ているのは、生者ではなく、すでに失われた魂であることを悟った。

「帰れない…」その学生の声が殺風景な教室に響いた。
不意に芳一は、彼がこの世に戻れる手伝いをしなければならないと感じた。
彼は強い思いに駆られ、その学生に尋ねる。
「何を求めているのか教えてほしい」と。

すると、学生は涙のようなものを流しながら、ゆっくりとその手を差し伸べた。
芳一は彼の手を取ろうとしたが、その瞬間、彼の姿は霧の中に消えてしまった。
芳一は冷たい汗をかき、驚きのあまりその場に立ち尽くした。
彼は息を呑み、空虚さに包まれ、何が現実で何が幻なのか分からなくなっていた。

翌日、芳一は学校に行くことを決めた。
あの霊的な体験が何を意味するのか理解したい、助けになりたいという想いからだった。
校舎の廊下を歩いていると、生徒たちの楽しそうな声が聞こえたが、芳一の心の中には何かしらの重苦しさが残っていた。
あの学生の魂を救うために、彼は何ができるのか。
これから訪れる日々の中で、彼のその想いが何を生み出すのか、芳一は静かに考え始めた。
失った魂は、ついに彼を呼び続ける運命にあるのだろうか。

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