看護師の佐藤は、ある静かな夜勤に入った。
勤務先の病院は古い建物で、廊下の灯りは薄暗く、どこか不気味な雰囲気を漂わせていた。
彼女の担当は主に病棟の管理や患者の急変に備える役割だったが、その夜は特に静かだった。
病棟は眠りについているかのように静まり返り、患者たちの呼吸音だけが響いていた。
そんな中、佐藤は一人の入院患者、山田のおばあさんが特に具合が悪い事を思い出した。
彼女は長い間この病院に入院しており、時折、奇妙なことを口にしていた。
「夜になると、道に人がいる」と。
その話が一度、他の看護師達の間で冗談として語られたこともあったが、佐藤にはどうしてもその言葉が引っかかった。
夜中、佐藤は山田さんの元へと向かった。
彼女の病室に入ると、窓の外から微かな声が聞こえた。
「帰ってこい、帰ってきておいで」それは、山田さんが何度も語っていた声だった。
佐藤は気味が悪くなりつつも、山田さんに声をかけた。
「おばあさん、大丈夫ですか?」しかし、返事はなかった。
山田さんの表情はどこか穏やかで、夢見心地のようだった。
佐藤が様子を見守っていると、突然、倒れこむように山田さんが convulse した。
驚いた佐藤は、すぐにナースコールを押した。
しかし、呼び出し音は病院の空気を通り抜けることなく響かず、シーンとした空間に静まり返った。
焦りながらも、佐藤は看護の知識を駆使して山田さんを助けようと懸命に努力した。
彼女の目には不思議な光が宿り、時折、何か他のものを見ているかのようだった。
「帰ってこい…」とその静寂を破るかのように、また声が聞こえてきた。
佐藤はその声に引き寄せられるように感じたが、すぐに我に返り、医療機器のスイッチを操作し、助けを呼ぼうとした。
その時、病室のドアが音もなく開いた。
そして、黒い影がさっと入ってきた。
その影は、人の形をしていたが、顔は見えなかった。
何かに惹かれるように、佐藤は立ち尽くしてしまった。
影は山田さんの方へと進んでいき、まるで彼女を誘うかのように、手を差し伸べた。
「やめて!」佐藤は声を張り上げたが、その声は影に届かなかった。
影が山田さんに触れた瞬間、彼女の体から冷気が漏れ出し、まるで命が吸い取られていくように感じられた。
思わず佐藤は恐れを成して後退し、病室を飛び出した。
廊下に出た佐藤は、他の看護師や医師を探そうと必死に走った。
しかし、廊下には誰もおらず、ただ薄暗い照明のみが彼女を照らしていた。
心臓が高鳴り、恐怖で体が震えた。
どこへ行くにも道が続いているが、出口が見つからなかった。
やがて、佐藤は次第に視界が狭まり、暗闇が彼女を包み込んでいった。
気が付くと、また同じ病室の前に戻っていた。
扉は未だに開いている。
中を覗くと、山田さんは静かに眠っているようだったが、その周りには黒い影が立っていた。
影はゆっくりと彼女に近づき、再び声を発した。
「帰ってこい、帰っておいで。」
その瞬間、佐藤は我に返り、病院の廊下を駆け抜けることができた。
振り返ることはできず、ただ逃げ続けた。
長い道のりを越え、やっとの思いで病院の外へと出た。
外の風に当たると、少し冷静さを取り戻した。
しかし、その夜、佐藤は病院に戻ることはなかった。
夜の道は、終わりのない迷宮のように感じられた。
山田さんはその後も姿を消し、病院ではその彼女のことを知る者は誰もいなくなってしまった。
看護師たちは彼女のことを忘れ、再び静けさが戻ったが、夜の病院では今もなお、「帰ってこい」という声が響いているのだった。