「山神の囁き」

神々が住まうとされる山の奥深く、古びた寺が一つあった。
この寺は長い間、山の神を崇めるための場であった。
人々はこの寺に集まり、神の恵みを祈り、様々な儀式を行っていた。
しかし、時が経つにつれ、訪れる者は次第に減っていき、寺は寂れ果てていった。

その寺に住む僧侶の名は、叡智(えいち)と言った。
叡智は若い頃に寺に弟子入りし、神の教えを守り続けていた。
しかし、彼はある晩、夢の中で山の神から不思議な声を聞いた。
「明日、くれなゐの三日月の夜に、寺の裏の古木の下に来なさい」と。
その言葉はとても強く、彼の心に深く刻まれた。

次の日、昼の間はただの普通の日であったが、夜になると、彼の心は不安でいっぱいだった。
くれなゐの三日月が空に浮かび、薄暗い光が寺を照らしている。
叡智は、神の声に導かれるように、静かに寺の裏へと足を運んだ。

古木の下に着くと、鳥肌が立つほどの冷たい空気が彼を包み込んだ。
周囲は静まり返り、悲しい風が木々を揺らす。
すると、視界の端に何かが動くのを見た。
薄明かりの中、影のようなものが彼に近づいてきた。
それは一人の美女で、長い黒髪をなびかせ、白い着物が月明かりで美しく光っていた。

彼女の目は、まるで深い闇の中に吸い込まれるようで、叡智はその瞬間、惹きつけられてしまった。
「あなたが私を呼んだのですね、師」と彼女は低い声で囁いた。
「あなたには神の教えを受け継ぐ者としての運命が待っている。」

叡智はその言葉に戸惑い、彼女に何を求められているのか理解できなかった。
「私はただ、一人の僧侶であり、神を崇める者です。何を教えていただけるのでしょうか?」彼は、不安を隠しながら問うた。

彼女は微笑を浮かべ、神の教えを解き明かし始めた。
しかし彼の心には恐れが渦巻いていた。
それは、彼女の言葉が名前も知らぬ恐怖を引き起こすのを感じたからだった。
やがて彼女は、叡智を強く見つめ、「あなたが受け入れなければならぬものが、そこにはある。怯えず、目を閉じることも許されない」と言った。

叡智はその言葉に圧倒され、心が不安でいっぱいになり、思わず目をそらした。
その瞬間、彼の周囲で異変が起こった。
古木がうねり、森の中から不気味な声が響いてきた。
「師よ、我々の教えを受け入れなくてはなりません、さもなくば永遠に迷い続けなさい」と。

彼は恐れを抱えながら目を閉じ、何とかその場から逃げようと思ったが、背後から冷たい手が彼を掴んだ。
それは、美女の手だった。
「逃げることはできぬ、師よ。あなたの運命は、私たち神々の手の中にあるのです。」

叡智は動揺し、その瞳から涙が流れ落ちた。
「私に何を求めるのですか?」彼は必死に叫んだ。
しかし返事はなかった。
ただ、周囲の暗闇が彼を包み込んでいく。
彼は全てを忘れ、恐怖に身を委ねた。

その夜、寺には誰も戻らぬまま、叡智の姿は消えた。
人々は彼の不在を知り、様々な噂を立てた。
寺の裏の古木の下では、毎晩、彼の名を呼ぶ声が響くと言われ、その後も誰もがその地に近づくことはなかった。
そして時折、くれなゐの三日月の夜には、影のような美女が古木の下に立ち、彼の名を呼び続けているのだという。
恐ろしい運命に巻き込まれた叡智の声が、今も風に乗って山へと響いている。

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