友人の佐藤と一緒に山へハイキングに出かけた、大学生の加藤は、自然の中でリフレッシュできることを楽しみにしていた。
山は静かで、美しい景色が広がる場所だった。
しかし、その日のハイキングは思わぬ方向へと進むことになる。
道を歩いているうちに、ふとした瞬間に彼らの周りから音が消えた。
風の音も、鳥のさえずりさえも聞こえず、まるで世界が暗闇に包まれたかのようだった。
加藤は首をかしげ、「おかしいな、何か感じる?」と佐藤に尋ねる。
「いや、特に何も…ただ、静かだね」と返す佐藤の声は、どこか不安を含んでいた。
その時、山道の向こう側から低い声が聞こえた。
それは人の声のようで、遠くにいる誰かが加藤を呼んでいるかのようだった。
「誰かいるの?」と加藤は声を上げたが、返事はなかった。
不気味な静寂が彼らを包み込む。
何かが彼らを見守っている気配を感じ、加藤は身を硬くした。
彼は気を紛らわせようと笑顔を作るが、それはどこかぎこちないものだった。
その晩、彼らは山のふもとのキャンプ場に宿泊することにした。
火を囲むと、加藤は自分心を落ち着けようと必死だった。
そんな時、周囲から再び不気味な声が聞こえてきた。
「ラ…ラ…」と、不確かに呼ぶ声がする。
その声は、加藤の耳にずっと残り続けた。
「なんか、気味が悪いな」と佐藤が言うと、加藤も不安が募り始めた。
かすかに振り返り、暗闇に目を凝らすが、何も見えない。
彼はこの声が何を意味しているのか理解できなかった。
ただ、心の奥に不安が根付く感覚があった。
その夜、加藤はふと目が覚めた。
周囲は依然として静まり返っている。
目を開けると、テントの外に人影が見えた。
ざわめきに誘われ、彼はゆっくりとテントを出てみる。
月明かりの中、何かが自分を見つめているのがわかった。
人影はその姿を隠すように暗闇に溶け込んでいた。
「誰かいるの?」加藤は思わず呼びかけるが、またしても返事はなかった。
声は再び「ラ…ラ…」と囁くように響く。
彼は立ち尽くしてしまった。
徐々に、影は山の奥へと消えていった。
佐藤を呼ぶために戻ると、その時ふと佐藤の姿が見つからないことに気がついた。
「佐藤!」と叫びながらテント内へ戻ったが、彼はそこにいなかった。
加藤は冷静さを失い、周囲を探し回る。
だが、山の静けさの中で悲鳴は一切聞こえない。
ただ、さっきの「ラ…」という声だけが、空気を支配していた。
不安が加速し、その声の正体が気になり出した。
泥のような疲れが身体を包み、加藤は急いで山を降りることに決めた。
しかし、山道は思いのほか長く、彼はどこに向かっているのかわからない。
暗い林の中を彷徨っているうちに、再度、あの声が聞こえてきた。
「ラ…」
もはや心の整理がつかず、加藤は思わず逃げるようにして足を動かした。
と、その瞬間、目の前にぼんやりとした光明が見えた。
その光に向かって走ると、不意に視界が開け、別の場所へとたどり着いた。
そこは何もない空間、ただ木々が立ち並ぶ異様な場所だった。
不安でいっぱいの彼は振り返ると、あの人影が立っているのを見た。
その影は一言も発さず、ただ静かに彼を見つめていた。
彼はその瞬間、冷や汗をかいた。
影は次第に近づいてくる。
加藤は無我夢中で山を登り、声が聞こえる方へと進む。
「ラ、助けて…」と不安な囁きが頭の中を巡った。
ようやく人の気配が近づいてくるのを感じた。
声の主を見つけた時、彼はやっと解放された思いで駆け出した。
後日、加藤は友人の佐藤を見つけた。
彼が山で遭遇したものに対して明確な記憶はなかったが、何か大切なものを失ったような感覚だけが残った。
加藤はあの山の静寂が呼び寄せた響きに、決して近づかないことを心に誓った。
山は、逆に彼のもとから「ラ」を消し去ったようだった。