田舎の村に住む太郎は、幼少期から母親に言い聞かされていた。
「夜に山には近づいてはいけない。そこには悪霊が住んでいるから」と。
彼はその言葉を守り、大人になっても山の近くには行かなかった。
しかし、ある晩、友人たちに誘われて、彼はついにその禁を破ることにした。
「ちょっとだけ行こうよ、怖い話を持ち寄って、皆で盛り上がるんだから」と友人が言う。
太郎は心の中で母の言葉を思い出しつつも、断りきれなかった。
月明かりが照らす道を進み、山の入り口に辿り着いた彼らは、鬱蒼とした木々に囲まれた静かな場所に腰を下ろした。
最初は楽しく談笑していたが、しだいに暗闇が彼らの心に不安をもたらしていった。
そんな時、「一番怖い話をしよう」と友人の一人が言い出した。
太郎はハッとした。
村の伝説には、山の奥に埋まった悲劇とそこから生まれた「文」という存在があった。
文は、その名前を呼んだ者を絶望に導くと言われていた。
友人が話し始めた。
「昔、この山の奥で、ある女性が不幸に見舞われた。彼女は、愛する人を失い、心の中に恨みを抱いたまま、亡くなった。その夜、彼女の魂は山に囚われ、『文』となり、村人に恐怖をもたらすようになった」という彼の声が少し震えた。
太郎は心がざわめくのを感じていた。
そして、次の瞬間、周囲の空気が一変した。
山の奥から風が吹き、木々がざわめいているように思えた。
その時、誰かが「太郎、何か後ろにいるぞ」と囁いた。
彼は振り返ると、確かに一瞬、薄暗い影のようなものが見えた。
恐怖に駆られた彼は、すぐに友人たちと逃げようとした。
しかし、足が思うように動かなかった。
「文だ!文が来た!」友人の叫び声が響き、パニックに陥った。
太郎は心臓が高鳴り、恐怖に我を失いながらも、なんとか逃げ出そうとした。
だが、その瞬間、視界が歪んだ。
山からの冷たい風が彼を包み込み、彼は次第に意識を失っていった。
目の前には、かつての美女としての面影をもつ霊が現れた。
彼女は静かに微笑みながらも、深い悲しみをそのまま切り取ったような表情をしていた。
「私の名前を呼んだね、太郎」と、かすれた声が響いた。
太郎は、恐怖と驚愕から逃げようとしたが、体が動かない。
彼女の存在は非常にリアルで、自分自身が何をしようとしていたのかも忘れかけていた。
「私を忘れないで。だが、あなたの心を奪うことはしない」と彼女は語りかけてきた。
その時、太郎の心に一つの思いが浮かんだ。
「文を解放しなければならない。母が言ったように、彼女の痛みを癒すことで、解放されるかもしれない」と。
彼は意を決し、「あなたの悲しみを知っています。私も恐れていますが、あなたを助けたい」と告げた。
すると、女性の表情が少し和らぎ、彼女の周りに薄い光が浮かび上がった。
「解放してくれるのなら、私はこの山を去る」と。
太郎は彼女の言葉に従い、祈るような気持ちで山の奥に向かって叫んだ。
「彼女の痛みを癒すため、彼女を解放してください!」
その瞬間、彼女の霊は少しずつ光に包まれながら、消えていった。
そして、不意に静かな夜の山の中に、静寂が戻ってきた。
友人たちは太郎を見つめていたが、彼は無事だった。
皆は恐怖で固まったままだったが、太郎はその場の緊張が和らいでいることを感じた。
その日以来、太郎は母の教えを思い出しつつ、村の伝承を語り継ぐことで、文の存在を残さないよう努めることにした。
そして、彼の心の中には、解放された女性の微笑みがいつまでも残っていた。
山には再び静けさが訪れ、彼はその場所に恐れを抱きつつも、大切な思い出として残していくことを決めた。