小さな町の片隅にある古びた居酒屋「ひまわり」。
店内は薄暗く、木の温もりが感じられる。
しかし、何故かこの居酒屋の壁には独特の気配が漂っていた。
常連の客たちの間では「この場所には、厄介なことが封じ込められている」という噂が流れていた。
ある晩、仕事を終えた佐藤は、ストレスを解消するためにその居酒屋に足を運んだ。
外の冷たい風とは裏腹に、店内からは人の笑い声が響き渡っている。
彼はバーのカウンターに腰を下ろし、一杯のビールを頼んだ。
周囲の誰もが楽しげに話し、平和な雰囲気に満ちていたが、佐藤だけはどこか落ち着かない気持ちを抱えていた。
彼はこの居酒屋に来るのが初めてではなかった。
数ヶ月前、友人たちと一緒に訪れたとき、店の片隅にいる一人の女性に目を引かれた。
その女性、名は茉莉というらしいが、彼女はいつも絶望的な目をしていた。
心に孤独を抱えながら、誰かに助けを求めているように見えたのだ。
その日は、茉莉のことを気にしつつも、友人たちと過ごす楽しさで忘れかけていたが、今夜、再び彼女の姿が思い出された。
ふと、彼女が先にこの居酒屋に来ているかもしれないと感じ、周囲を見渡した。
その時、ふいに彼の耳元で「佐藤……」と呼ぶ声がした。
振り返ったが誰もおらず、店全体が賑わっているそんな中で、不気味な静けさが彼の背筋を走った。
佐藤は気のせいだと思おうとしたが、再び「私を見て……」という声がした。
朧げな光に包まれた茉莉が、隅のテーブルに座っているのを見つけた。
彼女はいつも通りの沈んだ表情をしていたが、まるで彼に手を振っているかのように見えた。
佐藤は彼女のところに駆け寄った。
「茉莉、どうしたの?」彼は声をかけた。
「助けて……私の思いを解放して……」彼女の声音はかすかで、どこか遠くにいるようだった。
佐藤の心に不安がよぎった。
彼は彼女の暗い目を見つめ、気持ちを感じ取りたかった。
「あの日、私が店に来た時、私は事故に遭ってしまった。今も、ここにいる私を誰も気づかない。しかし、私の思いは、薄暗いこの居酒屋に封じ込められたまま……」
佐藤は困惑し、茉莉の話を聞くことにした。
彼女はどんどん語り続け、彼女が生前に抱えていた孤独や悔しさを語った。
茉莉は、特に自分の希望が叶わなかったことを悔いていた。
彼女の言葉はどことなく苦しげだった。
「私を自由にして。誰かに伝えてほしい。この呪縛を解いてほしい」と彼女は何度も繰り返す。
佐藤は茉莉の叫びに心が痛む一方で、彼女を助けたい気持ちと、どれだけの人がこの呪縛を受け入れられるのかという戸惑いが交錯していた。
彼は決心した。
この不幸な魂を解放するためには、自分自身がどうにかしなければならない。
居酒屋のオーナーに尋ねると、この店には昔からの言い伝えがあることを教えられた。
元々この居酒屋は、悲劇を経験した人たちが集まる場所であり、彼女のような未練を持つ魂がここに留まってしまうのだと。
「私は君を解放するよ」と、佐藤は茉莉の目を見ながら告げた。
「君の思いを、みんなに伝えていくから。」
そう言った瞬間、店内が一瞬静まり返った。
お客たちの視線が彼に向けられる。
蓄積された怨念が徐々に渦を巻き、茉莉の姿がその中心に集まっていくのを感じた。
「ありがとう、佐藤……私の思いが……」
そして、茉莉はその瞬間、光の粒となって消えていった。
彼女の本当の自由が、ようやく与えられたのだ。
店の雰囲気が一変し、お客たちの笑い声が戻ってきたが、佐藤の内心は重く、胸が熱くなった。
「井上茉莉、君の思いは、これからも忘れないよ。」彼は心の中で誓った。
次に彼がこの居酒屋に来るのは、また別の穏やかな時間を求めて訪れる時だろう。
ただ、彼の心の片隅には、彼女の思いが永遠に残ることになるだろう。