彼方は、都会の喧騒から逃れたいと願い、山奥の古い宿を訪れることにした。
周囲を囲む深い森と静かな湖は、彼の心を和ませる場所になると期待していた。
その宿は、長い間無人だったらしく、薄暗い廊下には埃が積もり、梁は茶色に変色している。
静けさの中、彼方はすでに乗り込んだ電話ボックスの数えていた。
チェックインを済ませた彼の前には、宿の主人である中村が現れた。
彼は、小柄で髪が白髪交じりの老人で、優しそうな笑顔を浮かべている。
中村は、宿の歴史と特色を簡単に説明した後、「ここでは不思議な現象が起こることもある」と言った。
その言葉を軽く受け流した彼方は、部屋へと向かうことにした。
部屋に入ると、すでに彼方は疲れ果てていた。
ベッドに体を投げ出し、静けさを楽しむことにした。
しかし、夜になり、宿が静まり返ると、異様な気配を感じ始めた。
不安に思いつつも、彼は心を落ち着かせ、小説を読みながら眠りについた。
不快な夢にうなされることが続き、ある晩、ふと目を覚ました彼方は、部屋のドアの隙間から微かな光を感じた。
好奇心に駆られ、彼はドアをそっと開けた。
廊下には誰もおらず、ただ薄明かりだけが揺らめいていた。
恐る恐る廊下を進むと、宿の食堂から微かな声が聞こえてきた。
「の、悲しみよ…」
その声に引き寄せられ、彼は食堂の方へ進んでいく。
ドアを開けると、目の前には見知らぬ男女が座っていた。
二人は穏やかな笑みを浮かべて話していたが、その表情にはどこか不気味さも漂っていた。
彼方は無言でその様子を見ていると、ふと、彼の目に映ったのは、食卓に置かれた人形だった。
その人形は、干からびたような顔とひび割れた肌をしており、彼は思わず身震いした。
その瞬間、彼の視界が急に歪んだ。
人々の表情が恐怖へと変わり、宿全体が揺れ動くかのような錯覚に襲われた。
声を発することが出来ず、彼方はただその場から逃げ出すことしかできなかった。
廊下を疾走し、自分の部屋へ戻ると、彼は膝を抱えて震えた。
しかし、そんな彼の耳には再びあの「の、悲しみよ…」という声が聞こえてきた。
彼は次第に、その声の意味を理解するようになった。
どうやら、この宿には長い間宿泊していた客が未練を残したまま逝去し、その祈りが今も続いているのだということを。
翌朝、彼は宿の主人にそのことを話すと、驚いた表情を見せた中村は言った。
「ここには、何人かの宿泊者が未練を持って、それを探し求めている。特に、過去の出来事に縛られた者たちが引き寄せられるのだ」と。
彼方は不安と興味を抱え、宿を出ることを決意した。
しかし、次の瞬間、宿庫の中から声が聞こえた。
「の、助けて…」その言葉を聞いた瞬間、自分がその未練に引き寄せられていることを理解した。
無意識のうちに彼は振り向き、何かに引き寄せられるように食堂の方へと戻っていく。
そこで彼は、自分が何をすべきかを理解した。
この宿の宿泊者たちが残した未練を晴らし、彼らを解放するための祈りを捧げなければならないと感じた。
彼方は食堂の中央に立ち、心の底から彼らのために祈り始めた。
「どうか、未練を捨ててください…私たちに安らぎを与えてください」と。
その言葉が響き渡ると同時に、周囲の空気が静まり、何かが解放されていくのを感じた。
ふと、目を閉じると、周りにいた男女の表情が柔らかくなり、次第に消えていった。
彼方は、清々しい気持ちで宿を去ることができた。
宿は静まり、彼の心には、宿泊者たちの思いを受け止めた温もりが残った。
彼は、この不思議な体験を忘れることはないだろう。
夜にうかび上がる声が、彼を呼び寄せることはもうないと信じたい。